2001年 聖霊降臨後第6主日(2001.7.15)


司祭 ヨシュア 文屋善明


祈り  コロサイ1:1-14


 コロサイの教会は使徒パウロの伝道によって形成された教会ではない。しかし、コロサイの教会は使徒パウロの祈りの中にある教会である。しかも、その祈りはまさに牧会者としての祈りである。使徒パウロが直接に手がけて形成された教会ではないとしても、現在の教会制度に照らして言うならば、主教としての使徒パウロの牧会の中にある教会である。コロサイの教会は多分、使徒パウロの「仲間」エパフラスと呼ばれる人物によって形成されたと思われる。(7)エパフラスについては詳しいことは分からないが、恐らくフィリピ書4:18のエパフロデトと同一人物であろうと言われている。フィリピの教会に送られた書簡によると、使徒パウロは「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、またあなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、しきりにあなたがた一同に会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしみ悲しみが和らぐでしょう。だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼にような人々を敬いなさい。わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」(フィリピ2:25-30)
 この文章の中に、初期の教会における主教と聖職者たちとの関係が読み取れる。恐らくエパフラスはフィリピの教会出身であろうと想像される。彼は(激務のため)かなり深刻な病気なった。そこで、使徒パウロは、彼を出身教会に任命し、そこで牧会しながら療養するように配慮したのではないだろうか。そのためにフィリピの教会に送った書簡がフィリピ書であり、同時にコロサイの教会にも書簡を送った。それがコロサイ書であろう想像される。なぜなら、コロサイの教会はエパフラスによって開拓された教会である。
 現在でも、昔でも、問題のない教会はない。何も、信徒に問題があるというのではない。コロサイの教会の場合には、いわゆる「新思想」からの攻撃という厄介な問題があったように思われる。コロサイ書2:8に「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい」と述べられている。いわゆるグノーシスと呼ばれる「新思想」が教会に対して攻撃をし、信徒たちを惑わしていたと思う。この思想は、ある点ではキリスト教に似ているが、根本的なところでキリスト教に対立するものであった。単純化して言うならば、キリスト教も悪くはないが、キリスト教だけでは「足らない」という考え方である。これは現在でもわたしたちを惑わせる思想である。キリスト教を正面から否定するのではなく、キリスト教を認めつつ、その不足分を他の思想、あるいは信仰によって補うという考え方である。それに対して、使徒パウロは「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」(2:9、10)と語る。つまり、キリストの福音に足らないところはない。キリスト教信仰において十分である。というのが、コロサイ書の語るすべてである。本日のテキストで言うならば、9節の後半にある「神の御心を十分に悟り」の「十分に」という言葉は、特別な言葉が用いられており、それは「足らないところがない」「満ち溢れる」(プレローマ)という意味の強い言葉が用いられている。つまり、もしキリストの福音で「足らないところ」があるとすれば、それはわたしたちの認識が足らないのであって、「十分に悟れば」足らないところはない、ということを意味している。使徒パウロはここでそのことを祈っているのであり、牧会とはそのことに他ならないという。
 コロサイ教会の牧師エパフラスはこの新思想との戦いの中で疲れ果て、遂に倒れた。使徒パウロはエパフラスに休養が必要だと考えた。そして、コロサイ教会の牧会の責任を自ら引き受けた。と、考えるのは強引過ぎるだろうか。強引かもしれない。しかし、そうだと考えると、主教と牧師との関係が生き生きと推測される。教会の抱える問題は多様である。一つ一つ教会によって問題は異なる。しかし、主教は自ら派遣した牧師の問題を取りこむ勇気が必要であり、主教がその問題を共有し、万が一その牧師が倒れたとき、牧師に代わって立ち向かうということによって、牧師は自らの教会の抱える問題に命をかけて取り組むことができる。こういう関係の中でのみ、主教の「そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています」という9節の言葉が生きてくる。

 

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