2001年 聖霊降臨後第7主日(2001.7.22)


司祭 ヨシュア 文屋善明

敵対  コロサイ1:21-29


 使徒パウロはキリスト者になる以前の人間の姿を、ただ一言「神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」と言い切る。これはこの手紙を出しているコロサイの信徒だけの問題ではなく、全てのキリスト者について語っていることである。いわばキリスト者になる以前の全ての人間の状況は「神から離れている」という。これは「自覚」の問題ではない。「自覚」はキリスト者になってから「反省」によって出てくる。これを語っている使徒パウロ自身にしてもキリスト者になる以前「神に敵対している」とは夢にも思っていなかった。むしろ、他の誰よりも「神に忠実な人間」であるとさえ信じていた。しかし、キリスト者になってから、なる以前の自分を反省してみると、実は「神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していた」という事実に思い当たった、というのである。
 「しかし今や」という言葉で神とわたしたちとの新しい関係が述べられる。ここで注目すべき第1のことは、主語が換わっている、という点である。「以前は」わたしが「神から離れ」「神に敵対していた」のである。「しかし今や」「神が」「わたしたちと和解し」たのである。わたしの方の「変化」ではない。わたしが変わったのではない。わたしは以前から同じであり、以前と同じように「神から離れ、神に敵対している」。しかし、神が行動を起こし、神が御子を送り、わたしたちと「和解してくださった」。ここに、今や神とわたしたちとの関係が根本的に変化した。もはや「以前のように」わたしたちは神から離れていない。神は以前と同じように「敵対している」わたしたちを包み込み、神に属するものとしてくださった。
 それは、あこや貝が刺を自分の中に飲み込むように、神ご自身がご自身に敵対する「刺」を自分の中に包み込んでくださった。
 真珠の出来るまでのプロセスは、キリスト者の経験を語るのに最も相応しい自然界のモデルである。あこや貝は刺を自分の中に飲み込み、自ら傷つきながら、やさしく、やさしく自らの分泌物で包み込む。やがて、あこや貝の中に飲み込まれた刺は何年もかかって真珠質によって包まれ、あの美しい真珠が生まれる。それと全く同じように、神によって包まれることによって、わたしたち自身の中に変化が生じる。神は自らの恵みによってわたしたちを「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」としてくださる。

 

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