2001年 聖霊降臨後第8主日(2001.7.29)


司祭 ミカエル 藤原健久


 技術の進歩により、様々なことが出来るようになった。その中でも、テレビ等でよく取り上げられるのが,臓器移植,生殖医療等,直接人間の肉体の生命に関わることである。これらの中で、ドナーとの関係、代理母等、今まで考えもしなかったような問題が出ていると聞く。マスコミが取り上げているのだから、センセーショナルな部分を選択して大げさに伝えているのだろうが、それでも病院や各方面に、倫理的な部分を審議する委員会等が設立されているのも見ると、これらの問題が難しいことが分かる。
 私は、これらの問題について語る資格がないとは思いながら、でも思うことがある。人間が足を踏み入れてはいけない神の領域が、やはりあるのではないか。人間の生命は神様のもので、人間がが左右することは出来ないのではないか。その上で、具体的にどこまでのことが許されるか、勧められるかは、倫理の問題である。私もこれから勉強せねばならないと思う。
 神の領域を認めることは、人間の側からすると、「あきらめる」ということになろうか。あきらめは、マイナスのものとして捉えられることが多い。しかし、私は、あきらめることが大切な時もあるのではないかと思う。あえて言えば、「神のみ心に沿ったあきらめ」も存在し得るのではないかと思う。別の見方をすれば、もしあきらめることが許されない社会だとしたら、どれほど苦しいことだろう。あきらめは、ある一つの道を断念し、別の道を選択することと思う。その人の生き方の上で、「何かをあきらめる」という選択肢があっていいだろうし、その選択を閉ざすような外圧は苦しい。
 以上のように書きながら、しかし自分にとって他人事になっていないかと恐れる。また、自分自身がちゃんとあきらめているかを問う。病気になっても全てが元通りになると考え、まるで自分が不老不死のように思ってないか。神様の力を信じて生きたい。

 

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