2001年 聖霊降臨後第9主日(2001.8.5)


司祭 ヨハネ 下田屋一朗


旧約聖書:
「まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」(コヘレトの言葉2:22-23)

 書名は、ヘブライ語原典が「コヘレトの言葉」で始まっているところから来ています。「伝道の書」と訳されることもあります。「コヘレト」は「集める」という動詞から来ており、「集会」や「会衆」と同じ語根から派生した名詞です。そこから「集会で語る者」「説教者」「伝道者」と解釈されました。しかし本書では「わたしコヘレトは」という言い方で固有名詞のように用いられています。ひとりの知者である「わたし」が、知恵と知識と教訓を人々に教えるという形をとっています。
 その「わたし」は、この世界に起こるすべてのことを知恵を尽くして探求しましたが、それらはどれもみな空しく、風を追うようなことでありました。また、知恵と知識を熱心に求めた結果悟ったことは、知恵も知識も愚かで空しいことにすぎないということでした。努力の末に得たものは「何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく、耳は聞いても満たされない」という思いでした。「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」というのが「わたし」の結論でした。
 最初に引用した一文はこのような流れの中で語られた言葉で、人は一生苦悩に耐え、夜も昼も労苦するものであること、しかもそれらは実に空しいものであることが述べられています。「わたし」が言う「空しい」は虚無というより「過ぎ去ること」や「はかなさ」を意味し、被造物にとって不可避の「死」から来るものです。苦悩も労苦も探求も、人間の業はこの根源的な空しさを免れることはできない。
 今日の福音書(ルカ12:13-21)の中で、主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言っておられます。そして「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」とならないようにと教えておられます。わたしたちはこの世で何のために生きるのか、どのように生きるべきかを問われています。

 

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