2001年聖霊降臨後第11主日(特定15 2001年8月19日)


司祭 ヨハネ 井田 泉


地上に火を投ずるために   ルカ12:49-50


 イエスは言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」イエスがこの地上に来られたのは、地上に火を、燃える火を投ずるためであると言われます。これはどういう意味なのでしょうか。イエスが投じられる火とは、どんな火なのでしょうか。
 火とはまず審きの火、神の審判の火、悪を滅ぼす火です。イエスは、審きの火を投じるために地上に来られた、というのです。イエスはこの地上、この世界、この社会、そこに住むすべての人を審かれます。その火の前に隠れることのできるものはありません。人の目にもあらわな、明白な悪のみならず、陰に隠れた悪も審かれます。この審きは同時に、苦しめられている者を救う審き、虐げられた者を救われる審きです。
 8月は日本の敗戦の記念の月、平和への願いを新たにする時です。日本の不義の戦争によって、多くの人が苦しみを受け、また命を奪われました。今もその傷が癒されないでうずいている人々があります。たとえば、日本の軍隊に引っ張られていった元軍隊慰安婦の方々です。青春を、人生を踏みにじられたこれらの人々が叫んでおられます。日本の国による謝罪と補償がなされないままに、傷が癒されないままに、この人々は老いて死んでいかれる。そのようなことがあってよいでしょうか。
 マリアの賛歌にこうあります。
「主は権力ある者をその座から引き降ろし/身分の低い者を高く上げられます。」
 神さまの審きは、これらの人々を高く上げ、日本国家の悪を責めるものです。
 イエスが投じられる火は、第二に、清めの火です。詩編66編に「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された」という言葉があります。火によって銀が煉られ、銀と混ざり合っている不純物が取り除かれます。私たちも、さまざまな不純物を、神さまの子としてふさわしくないものを抱えています。主イエスの投じられる火によって、私たちは煉られ、清められるのです。
 第三に、イエスの投じられる火は、愛の火です。イエスの火は、審きの火、清めの火であるとともに、愛の火です。
 「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」
 イエスは、この地上に、私たちのうちに、愛の火が燃えていることを切に願われました。「しかし」とイエスは言われます。しかし私たちの間には愛の火が燃えていない。
「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしには受けねばならない洗礼がある。」
 イエスは、この愛が燃えていない私たちのために、愛のない世界のために、みずから激しい苦しみを経験すると言われます。自分が苦難の洗礼を受けなければならない、と言われるのです。
 愛することのできない私たちが、愛することができるようになるため、イエスは私たちに愛の火を投じられる。愛のない私たちが愛するようになるために、イエスみずから燃える愛の火となって、ご自分を投じられた。それが十字架です。
 「わたしには受けねばならない洗礼がある」と言われた、その苦難の洗礼をイエスが自ら受けて苦しんで、私たちに限りない愛を注がれたのです。
 私たちは、私たちの受ける洗礼によって、イエスの限りない愛を受け取ります。そして私たちもまた神さまと人を愛するために、いくぶんかの苦しみを受ける者となるのです。
 イエスの投じられた審きの火、清めの火、そして愛の火。それを私たちの内に絶やさず保ち、その火が世界にさらに大きく燃えるように、仕えたいと願います。

 

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