8月26日 聖霊降臨後第12主日(特定16)


執事 セオドラ 池本則子


誰が救われるのか


 クリスチャンというのは、自分は救われている、神の国に入れる、と当然の特権のように考えているのでしょうか。本日の福音書はこの特権を持っているというクリスチャンの思い込みに警告を与えられています。
イエス様に「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言った人は、自分は当然救われていると思っていたからこそ発せられた言葉だったのではないでしょうか。それに対してイエス様は一同に「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われ、家の戸を一度閉められてしまってからでは、もう開けてもらえないことを話されます。家の中は神の国の宴会が催されています。アブラハムやすべての預言者たち、また東西南北から集まって来たた異邦人たちが宴会の席についています。しかし、戸の外にいる人たちは投げ出されて、泣きわめいて歯ぎしりすることになります。
 ところで、この家の中いる人たちと外にいる人たちとの違いは何でしょうか。「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われていますが、この『狭い』というのは大きさの問題ではなく、チャンスのようです。一度閉められた戸はもう開けてもらえません。閉められる前に入ることができるように努力する必要があるようです。戸が開けられている時を逃がさない。戸が開いている時がチャンスです。この時を逃がしたら入れなくなる。その努力をする。では、その時とは一体いつのことでしょうか。またどのような努力が必要なのでしょうか。 私は洗礼を受けて神の子となった。神様は一方的に私を愛し、私を救いの道に導いてくださる。たまには聖書も読んでいるし、お祈りもしている。年に何回かは教会にも行っている。だから安心していよう。ところが、イエス様は、「不義を行う者ども」と叱責されます。心から神様を信頼し、聖書を生きる支えとし、心から祈り、心から感謝・賛美の礼拝を献げているか。自分の十字架を背負い、イエス様に倣う生き方をしているか。イエス様は私たちの信仰生活を問われます。そして、その問われる時が戸の開いている時です。その時、自己中心の生活を捨て、悔い改めて神様に従い、イエス様と共に歩む信仰生活を送ることができれば中に入ることができるのです。しかし、自分は努力しなくても、自分中心に生きていても救いが保証されていると思い込んで悔い改めないと、不義を行う者として戸が閉められ外に投げ出されてしまうのです。神様から与えられた信仰の決断のチャンスを逃すと、取り返しがつかなくなることを教えられているのです。洗礼の恵みに与かった者はその特権に甘んずることなく、自己中心の生活を捨て、イエス様に倣う信仰生活を送って、狭い戸口から救いの道に入れるように努めていくことが大切な事です。

 

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