9月2日 聖霊降臨後第13主日(C年)特定17


司祭 クレメント 大岡 創


ルカによる福音書第14章1、7-14節
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(14章11節)

 本日の福音書では「宴会での席順選びの譬え」として、宴席に招かれた者と、招いた者に向けてそれぞれに教えを説いたイエスの言葉が記されています。
 よく、宴席に招かれたときに「上座は?」「下座は?」というようなことが気がかりになります。「先生はここに(上座)に座ってもらわないと・・・」などと言われたり、それではそのお隣は誰が座るのか・・・・・・ということでいろいろな人が譲り合ったりする場面に出くわします。そんなことは珍しいことではないし、世間の常識だと言われれば身も蓋もないのですが、それを「習慣だから」と捉えるのとその様子に「疑問」を持ってみるのとでは、大きな違いが出てきます。まず、招かれた人に対してイエスは「上座」・「下座」に着くこと自体が問題なのではなく、「上席を選ぶ様子」を問題とされています。それは、無意識のうちに自分が「権威あるもの」になってしまっていないか?また、まわりも「権威あるもの」をつくりだし、その位置付けを肯定していないか?という投げかけです。そこには、「へりくだった者」の姿ではなく「高ぶる者」の姿があります。そして、高ぶる者を支えるまわりの姿もあるわけです。
 また、イエスは招いた人に対しては「お返しをされない人たち」を選んで宴席に招きなさいと言われました。そして「お返しをされないことは幸いである。」とも言われています。所謂「世間の常識」では考えられないことですが、「お返しをされない」ことによって、招いた人が「高ぶる者」にならないですむ・・・・・・それは「幸いである」ということではないでしょうか。
 しかしながら、本当の意味での「へりくだる」ということは私たちにとってはなかなか難しいことです。真の意味での「謙遜」ということは、「自分」というものを良く知らなければできないことではないでしょうか? 「へりくだる者」に少しでも近づくために、まず自分の姿に気づきなさい・・・・・というイエスの声が聞こえてくるように思います。「高ぶる者」でもなく「高ぶるものを支える者」でもない生き方をイエスは求められています。
 今日の主日の御言葉であるシラ書10:12には「高慢の初めは、主から離れること、人の心がその創り主から離れることである。」とあります。
 「へりくだる者」となるために、まず、今、自分が主にあって生かされることに感謝し、祈り、喜びをもって生きましょう。そして、イエスが求められた生き方と自分を常に照らしながら、日々、歩みたいものです。

 

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