9月16日 聖霊降臨後第15主日(C年)特定19


司祭 サムエル 門脇光禅


天の大きな喜び《ルカによる福音書第15章》

 「見失った羊のたとえ」は新約聖書の福音中の福音といわれるほど、有名なたとえ話です。当時、イエスさまは 正統派と言われている律法学者やファリサイ派から「罪人」とレッテルをはられた人々と交際をしていました。ファリサイ派にはこれらの「罪人」には「金を預けることも、旅の道づれをしてもならない」という規定まであったのです。つまり彼らにとっては「罪人がひとりでも神のみ前で抹殺されるなら、天に喜びがある」のであって、罪人の「悔い改め」など理解できないことであったのです。彼らは罪人の救いを求めるよりその滅びを求めたのです。だからこそ、イエスさまは、この失われた羊と羊飼いのたとえを彼らに話されたのでしょう。
 ユダヤの地形で羊を飼うことは日本それとは大きく違います。まず牧場ではなく放牧です。安全な台地は狭くてすぐに断崖絶壁に突き当たるか荒野に出てしまいます。とにかく柵がないので羊は迷うことが多かったろうと思います。羊はものすごい近視なのでほんの数メートル先 においしい草があっても見つけることができないと言われています。まして自ら獰猛な野獣から身を守るすべもありません。その彼らにあるのは、雨風にさらされても昼も夜も、大きな杖、時にそれで移動する方向を教えてくれる、その杖を持って、じっと眼を凝らして見守ってくれる羊飼いの存在です。羊飼いは、一人前の羊飼いになるために子どもの時から羊と一緒に育てられます。そして羊の群れは大抵は村や団体の共有財産であることが多いので命をかけて羊を守ることは当然でした。山で迷子になった一匹の羊を村人みんなが心配したり、捜し出した子羊を肩に担って帰って来る羊飼いに大きな喜びをもって迎えることもあるそうです。1匹の羊をかけがえのない羊として大切に扱うことが実は、99匹を大切にしている証なのです。「1匹のために他の羊たちを危険にさらせない、99匹あるということは、損失1%ということだからまあ良いか」との考えは結局はその残されている99匹も大切に考えていないのと同じことなのです。この聖書のカ所で驚くべき真理は、実は神さまが人間よりもはるかに思いやりがあるということです。正統派といわれている人たちが、罪人は滅びる他はないと決めつけました。しかし神さまは違います。迷い出ない者を愛するだけでなく、迷い出たものが見つけられるところにもそのお心に大きな喜びをもって下さるのです。


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