9月23日 聖霊降臨後第16主日(C年)特定20


司祭 パウロ 北山和民


無責任な「光の子」たちへ 【ルカ16:1-13(不正な管理人のたとえ)】

○わたしたちを信仰へと招かれる神の願いは何であるのか。
  (イエスはこのことに敏感であった。)
○神の愛に応える能力は、どんな人間にも与えられている。
  (それはわたしにも、今求められている能力であり、責任なのだ。)

 この2点を黙想しましょう。神はわたしたちがこの世で生きる営みをかけがえのないものとして、見つめておられます。もしあなたがその神に応えないならば、宇宙も滅びると言わんばかりにあなたを招いておられるのです。しかしわたしたちが応えるその形は「命を慈しみ、謙遜に歩む(ミカ6章)」ことでであって、殉教・テロの報復合戦ではない。神は宗教者の神でも、まして偏狂・イデオロギーの神などではなく、さまよう魂を連れ戻し(先週のルカ15章)、共に生きることを喜ぶ実に現実的な力の神なのです。イエス様はそのことをよく知っておられ、今日のたとえばなしを弟子たち、つまり教会の内部の者に向て語られたのです。 決算報告提出に迫られた我々、人生の責任者は、如何にして巨額の使途不明金を説明するか、管理責任を果たさねばなりません。
 このたとえ話の管理人は現職に見切りをつけて、次の場所でとにかく生きて行くための妙案を実行しました。 契約書偽造によって「友、フィレオ(共に生きる人)」を作ったのです。 しかも主人がその不正(あくまで不正)を誉めたというのです。「不正の富を使ってでも友達を作れ」という荒っぽいメッセージなのです。それは、わたしたちは教会とか宗教の枠に守られ、安住し、「今だれと共に生きるのか」決断を先送りし居眠りしてるからなのです。この譬えは、聞く者を「終末」へと運び、共に生きるとは先送り出来ない我々の責務なのだと気づかせ、教会指導者(光の子達)はその責務にたいして生ぬるいと警告しているのです。 教会の宣教も貸借対照表と損益計算書を作り、リーダーも説明責任を果たすとき、「肉となられた神」にお応えできるのです。「この世」では当然のことなのですが、宣教不振や赤字決算を総括している教区・教会はいくつあるでしょうか。わたしたちが福音の光を浴びている喜びの証しと、教会が小さくされた人々と連帯することと、指導者が決算の責任をきちんと取ることとは深いところで繋がっているのです。教会の外で現実を苦しみ、誠実に生きている多くの人達から学びましょう。


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