9月30日 聖霊降臨後第17主日(C年)特定21


司祭 バルナバ 小林 聡


「貧しき者ラザロ」  ルカ16:19−31

 今日の福音書には一人の金持ちと貧しいラザロと言う人が登場する。金持ちと貧しい者の関係は二人の死後逆転する。死後、いくら悔やんでも生前の行いは変えられない。しかし生前変るチャンスはあった。アブラハムの答えは興味深い。「<モーセと預言者>に聞き従わないのであれば、死者の中からだれかが生きかえって来たとしても、納得するものではないのだ」。確かに金持ちにも神の声に聞くチャンスはあった。しかし例えモーセと預言者のメッセージを聞いていたとしても、その人に自分の状態を知り、変れる自分であるのでなければ決して神の声はその人に届かないし、また変らない。
 私達は金持ちが死後地獄で苦しむ姿を知らされる。そして生前どのように神のみ旨を生きるのかを問われている。貧しいラザロの存在は金持ちにとって、まさに神の声であり、生き方を変えるチャンスだった。しかし自分の状態を、ラザロの目から見た金持ちの状態を想像だに出来なかった。神により頼む生き方は、ただ自分のありのままの姿を受け入れられた時、その人は神により頼む者へと変われる自分となる。その視点は貧しき者ラザロ。
 戦争が始まろうとしているこの瞬間、何が私達を平和を作り出す器に変え、歩みを始めるきっかけとなるのだろうか。それはひとえに貧しきラザロとの関係をどうしたいのかという私自身の生き方の問題である。ラザロは今まさにアメリカの報復の餌食にならんとしているアフガニスタンの貧しき民衆である。


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