10月7日 聖霊降臨後第18主日(C年)特定22


執事 サムエル 小林宏治


「つまずきと信仰」 ルカによる福音書第17章5節から10節

 聖書を読んでいると、「つまずき」という言葉が目にとまった。この主日での福音書朗読には第17章の1節から4節までの部分は読まれないが、文脈の流れとして、この部分を含めて読んでいる中で、「つまずき」という言葉を見出した。
 「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない』」(17:1)。
 「つまずき」という言葉は聖書に出てくる言葉として馴染みがあるが、普段の生活では、「躓く」、「躓いた」という動詞で使う言葉である。石に躓いたり、事業に躓いたりと。何かに誤って当たってよろめくことを意味する。痛みを伴うことである。躓きという言葉を聖書辞典で見ると、信仰上の理解をさまたげるものの比喩的表現とある。預言者たちによってイスラエルの人々の神への服従の道を妨げるものを表すために引用せられていると説明している。
 イエスは弟子たちに躓きは避けられないと言われた。ある意味で、躓きは誰にでもあると言われる。また、そのことに気をつけなさいとも言われる。その言葉に対し、弟子たちが思ったことは、躓きにあわないために、また、躓きを他の人に与える事の無いようにはどうすればよいのかということだろう。その願いを、使徒たちは、「わたしどもの信仰を増してください」という言葉で表現したと思われる。
 イエスはその言葉に対し、「もしあなたがたにかしら種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことをきくであろう」と言われた。イエスは、からし種ほどの小さい種、そのような小さい信仰にも、私たちの思いを遥かに超えた神の偉大な力があると言われる。
 増してくださいという思いの中には、自分たちには大きくはないが信仰があると、そういうものが込められているように思う。その思いに、イエスの言葉は新たな気づきを与える。信仰は自分たちの努力によって大きくなるというものではなく、むしろ、神からの恵みと考えるべきなのだと。信仰の大小という思いは、他の人に比べて自分はどうであるのか、神により愛されている、報われているという自己満足を生むことになる。むしろ、私たちがもっている神への信頼、この信仰を通して、神の偉大な力が発揮されるのである。躓きを取り除くために信仰を増してくださいと願うのではなく、私たちの持っている信仰をより強く信じること、私たちが持っている信仰を肯定することこそ大切なことだと理解したい。


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