10月14日 聖霊降臨後第19主日(C年)特定23


司祭 ヨハネ 古賀久幸


担いきる信仰

 今年、ハンセン病患者に対する政府の隔離政策に司法の判断がくだされ、地に埋もれてきた数え切れない悲しみや苦しみに光が当てられたことは皆さまのご記憶に新しいことと思います。
 聖書の世界に入っていきましょう。ある村にさしかかられたイエス様の一行を迎えたのは、十人の重い皮膚病を患った人々の叫び声でした。「キリエ・エレイソン(主よ、憐れんでください)」。そこは村と荒野の結界であり、なお彼らは遠くに立ち止まったまま声を限りにイエス様を呼びます。ユダヤ社会では重い皮膚病が疑われた人は祭司に体を見せ診断を仰ぎます。宗教的不浄が宣告された患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆うという異様ないでたちを強いられました。しかも、誤って他人が接触しないよう絶えず「私は汚れた者」と叫ばねばならず、生活の場から隔離されます。ここにも深い悲しみと苦しみがありました。その叫びに応えて、イエス様は「祭司のところに行って、体を見せなさい」と言われました。治癒が確認されれば家族のもとに帰ることが出来るのです。十人は村へ向かって急ぎます。その途中、奇跡が起き彼らは清くされたのです。
 この物語は奇跡を起こしたイエス様の力を讃えるだけでは終わりません。癒された十人の内たった一人だけがイエス様のもとに感謝しに帰ってきたのです。
 イエス様の治癒の力もそうですが、私には二つのことが心に刻まれました。
 まず、清められた(癒された)者のうち、イエス様に感謝を献げに帰ってきたたった一人の人はユダヤ人ではなく、ユダヤ人から嫌われさげすまれていたサマリア人だったことです。民族や宗教の違いが憎悪の振幅を広げている今の状況、人間のどの部分を見なければならないのか考えさせられます。そして、もう一つ、このサマリア人に対して「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」とイエス様がおっしゃったのです。えっ、この人を救ったのはイエス様の力ではないのですか? 宗教と言うと癒しの奇跡を売り物にして布教し、しかもお金も絡んでくるケースが見受けられます。この場合、奇跡を起こす人に対して、患者(信者)は従属的、依存的な関係が作り出されます。他人に恩を売って自分に引き留めておくことは私たちの世間ではよくあること。しかし、イエス様はその人を人間として立たせられます。「行きなさい。」英語ではGo on your way。あなたが歩いてきたように、これからもあなたの道を歩きなさいと言うことでしょう。
 数年前、邑久光明園祈りの家教会の津島牧師を教会に招聘してお話を伺ったことがあります。神が与えられた苦しみには意味があると言いますが、元ハンセン病患者の津島先生の話は一つ一つ感動的でした。その中でも一瞬、会場が深い感動と共に神聖な一瞬を迎えときがありました。「わたしは、もう一度人生が与えられとするならば、神さま、私にこの病気をあたえてください。」 道を一歩も変えず、人生の苦しみを担いきるものすごい迫力に圧倒されました。イエス様が言われた「信仰」を見た一瞬でした。

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