10月28日 聖霊降臨後第21主日(C年)特定25


司祭 ステパノ 高地 敬

「正しさ」ってなんでしょうか〈ルカによる福音書第18章9‐14節〉

 教会に集う私たち、あるいは教会の信仰に興味を持っている人であれば、こんなふうに考えたことが一度や二度はあるはずです。「いつも正しいことを思い、正しいことだけ言い、正しい行動ができたら、それは神様のお考えに沿っていて素晴らしいことではないか」。人に優しくできる、立派な行いができる、そして何よりもイエス様に従って生きることができる。イエス様も「正しく」生きることを聖書の中で私たちに何度も促しておられるようです。清く正しく生きたい。
 ただ残念ながら、私たちはこのように完ぺきに正しくなるということは決してありません。だからこそ何とかして少しでも「正しく」あろうとするのですが、「正しさ」とはある意味でとてもやっかいなもので、また、時にはとても危険なものです。イエス様のたとえの中に出てくる一人目の人は、当時、正しいと考えられていた生活を懸命に守っていて、「神様、私はほかの人たちのような者でないことを感謝します」と祈りました。二人目の人は、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。当然、この人の方が謙虚であって「正しい」のですが、とても皮肉なことに、このたとえのお話を読む私たち自身が、「神様、私は一人目の人のようでないことを感謝します」と心の中で思わず祈っていないでしょうか。「正しさ」をいつも追い求めている私たちは、自分の方が正しいと思いたいですし、そう思った瞬間に、私たち自身が傲慢になってしまうということも知っています。また、あらゆる戦争や「報復」が、自分の方が正しいと思いたい気持ちから始まっていることも私たちはよく知っています。
 イエス様の言われる「神の義(正しさ)を求める」とは、見つけたから安心してそこに留まれるというようなものではないようです。むしろ求め続けるもの。「今はこれが正しいと私には思える」という程度のものなのかも知れません。とすると、「私の義(正しさ)」ではなくて、「神の義(正しさ)」を得るとはほとんど絶望的ということでしょうか。
 このたとえを語られたイエス様のことをここでもう一度振り返りたいと思います。イエス様ご自身、「正しさ」から一番遠いところに身を置かれました。当時の人々の目から見れば、神を冒涜し、宗教指導者たちの権威を損なった極悪の罪人でありました。そのイエス様がご自分のたとえの中の二人目の人のように、あるいはそれ以上にへりくだった姿を十字架の上で示されました。これは単なる模範としてだけではありません。「神様、私はほかの人たちのような者でないことを感謝します」としか祈れない私たちをまず赦すところから神様は始めてくださるということではなかったでしょうか。私たちが正しさを謙虚に求め続けていくことへと進んでいくのも、私たちの「正しくない」あり方が受け止められているからでありました。私たちはその時もう既に「神の義(正しさ)」の中に入れられていて、進む道が示されているのです。



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