11月11日 聖霊降臨後第23主日(C年)特定27


司祭 ヨブ 楠本良招

「闇と神の霊」

『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた』(創世記1:2)

 神が天地創造された直後の出来事で、光の創造までの間、地は混沌でしたから、闇が全面を覆っています。丁度分けの分からない、鼻をつつまれても分からない。口をポカンとあけてしまう、暗く底がないような空虚な状況でしょう。
 ミヒャエル・エンデの作品に「果てしない物語」があります。お読みになった方もいらっしゃるでしょう(エンデの作品等を含めて、信州の黒姫高原にある童話館に展示されています)。この物語は深遠な闇の虚無の世界(年老いた狼と表現)が急速に広まって行く。それに対し、月の光・セバスチャンとの息詰る闘いの内容です。暗闇と対決する光のセバスチャンは命の水を飲み、人を愛することができます。そして、深遠な闇(年老いた狼)に勝利することができたのです。この物語は、読者が月の光を助けていくと錯覚に陥る不思議な童話です。これは聖書のテーマである、光と闇(サタン)との闘いを暗示しているように思います。
 イエスさまが十字架にかけられる前夜、最後の晩餐で、イスカリオテのユダの裏切りの場面があります。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」(ヨハネ13:27)ここにユダは暗(くらやみ)として描かれています。暗(くらやみ)はサタンの支配する世界、不気味さがあります。それは、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった」(ヨハネ13:30)のように、夜の暗闇へ姿を消したのです。しかしイエスさまと残った11人の弟子達は、命と光輝く場にいました。暗(くらやみ)とは対照的です。
 さて私共が生きていく上で、光と闇との間を行き来しているように思います。なぜ辛くて悲しいことばかりこの身に起こるのか。涙することすらある。こんな時は闇(くらやみ)が深遠の面を覆っているような、サタンの誘惑すらと思う事すらあります。そんな時その闇(くらやみ)を突き破るように、神の霊が私達の人生の上に動いているのです。私達の根底からゆれ動かし、光と命の中へ導こうとされる。
 詩篇30篇6節に「泣きながら夜を過ごす人にも 喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とありますように、神は私達を必ず慰めて下さいます。
 このお方こそ闇(くらやみ)から光を輝かし、私達を光の中に入れて下さる。このお方を見上げ、お従いしましょう。


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