11月18日 聖霊降臨後第24主日(C年)特定28



司祭 ヨシュア 文屋善明

怠惰  テサロニケU 3:6-13

 テサロニケの教会は本当にすばらしい教会である。使徒パウロは繰り返し、そのことを思い感謝している。最初の手紙を出した頃、問題に感じていたことも、次の手紙では改善されていることを「感謝せずにはいられません」とまで言い、喜び、諸教会の間で「誇り」している、と言う。(4節)
 しかし、だからといって、テサロニケの教会の属するすべての信徒たちが模範的な信徒であったわけではない。テサロニケの教会の良さは、問題を持っている信徒たちにも寛容であったということ、彼らをも排除しないで受けいれている、ということにあったとも思われる。
 しばしば、よい評判の教会ほどこういう問題を抱えているということが現実にある。テサロニケの教会の場合には「怠惰の生活」ということが問題であったらしい。つまり、信徒たちの中に「怠惰な生活をしている者がいた」。しかも、この「怠惰」というものが、その人のやむを得ない事情によるというよりも、使徒たちの指導に従わないということに原因があったらしい。つまり、怠惰であるということを正当化して、教会の仲間たちに依存した生活を続けることを当然のように考える連中であったようである。教会の仕事を手伝うという大義名分のもとに、自分の社会的責任を果たさないで平気でいる人、ボランティア活動には熱心であるが、自分の家庭のことをほっちらかしている人、今日でもこういう種類の人たちは結構いる。教会という集団はこういう種類の人たちに対して非常に甘いところがある。
 使徒パウロは、そういう連中のことを「(あなたは)怠惰である」とはっきりと批判する。批判というよりも、叱っている。本人たちだけではなく、それを許している教会の「親切な信徒たち」をも叱っている。
 ここで、使徒パウロは彼自身がテサロニケの教会にいた当時のことを思い起こし、「誰からもパンをただでもらって食べませんでした」と語る。もちろん、ここではパンだけのことではなく「誰かに負担をかける」ということである。聖職者として「生活費をいただく権利」がなかったわけではないが、信徒たちに「負担をかけたくない」という思いから、それを辞退し、自ら生活費を稼ぎながらの牧会であったようである。テサロニケの教会における「怠惰の問題」は当時から既にあったようで、使徒パウロはそこでも繰り返し「働きたくない者は、食べてはならない」と忠告をしていたようで、そのこともあって、彼らに対して身をもって模範を示すために、そうしていたように思う。
 牧会者とは、そういうものである。信徒の中にアルコール依存症の人がいれば、酒を飲むことが必ずしも罪ではないとしても、酒を飲まない。偶像に供えたお下がりの肉を食べることに強い罪意識を持っている人がいれば、そんなことは問題ではないと思っていても、その人への配慮からそれを食べない。(コリントT 10:28)そういうことを背景にして、初めて牧師は信徒にはっきりとものが言える。自分自身が怠惰な生活をしていて、「怠けるな」と忠告することはできない。
 使徒パウロが問題にした「怠惰の問題」は、現在では「依存症の問題」である。アルコール依存ということが目に見えては問題になるが、依存症というのはアルコールだけではない。自分で自分の生活を営むことができないこと、常に誰かに、あるいは何かに依存している、その人に負担をかけて生きている人の問題である。依存の対象としてもっとも手っ取り早い相手が両親である。その場合、両親が頼られる間は問題にならないが、両親に依存できなくなったとき、問題が明白になる。これが以外に多く、ほとんど現代病と言ってもいいほどである。
 こういうケースの場合、それが最善の方策かどうか、現代の治療法として正しいかどうか、はともかく、使徒パウロは「避けなさい」(6節)と忠告している。これは非常に厳しい処置ではあるが、いわば消極的な療法で、使徒パウロはそれだけを考えているわけではない。依存症に対する積極的な療法として使徒パウロ自身が模範を示すということ、そして周囲にいる人々も「たゆまず善いことを」しなさいと命じている。
 最後に、この依存症の問題、あるいは怠惰の問題については、特別なコメントがついている。この点で、警告といい、戒めるといい、避けるというが、他の罪の問題とは異なる。そのコメントとは、本日のテキストに続いている部分で「しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」。これは非常に重要なコメントであり、そこに希望がある。


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