12月16日 降臨節第3主日(A年)

司祭 マタイ 西川征士

『待つこと』

 降臨節は待降節とも呼ばれるように、キリストの御降臨・御降誕を〈待つ〉期節です。
 子供時代には〈待つ〉という局面が結構あったように思います。"もう幾つ寝ると……"と指折り数えて楽しい正月を待ったり、遠足の日を待ったり、入園・入学の日を待ったり、おじいちゃん・おばあちゃんの家へ行く日を楽しみに待ったり……。青年期に達すると、恋人との出会いを待ったり……。でも、そのようなことを一通り経験して来た今、私達大人は何を待っているのでしょうか。昔なら戦争に出征して行った夫や息子の帰りを心から待ち望んだ人達がどんなに多く居たでしょう。今、何か慢然と消極的に〈死〉の時を待ちながら毎日を過ごしているのでしょうか。どうも現代の大人達は〈待つ〉ということが日常生活から失われているようです。
 子供とて同じです。戦時戦後の貧しかった時代は、欲しくても手に入れられないから、我慢して待つしかなかったのです。豊かな時代、物の豊富な時代。待つこと、忍耐、我慢すること等、ニガ手になってしまったようです。野球のボールを野原で見失って、夜暗くなってもトコトン捜したことが懐かしくさえ思います。
 宗教は〈待つ〉ことであると言われています。殊にキリスト教の場合、旧約・新約聖書を通じて〈待つ〉ことが教えられています。
 旧約の人々は、神の救いを待つ人々でした。メシア(救い主)を心から待つようになりました。そのメシア待望の中に主イエス様がお生まれになりました。
 新約では、十字架で死に、復活・昇天されたキリストが再びおいでになることを信じる信仰を教えています。私達キリスト者は、このような信仰に生き、「主イエス・キリストよ、おいでください。」という祈りの中に生きる者とされています。主の到来を〈待つ〉という緊張の中に私達は生きるのです。
 本日の使徒書に「忍耐しながら、大地の実りを待つのです。」「主が来られる時が迫っているからです。」とあります。また、福音書にも、「来るべき方は……それともほかの方を待たなければなりませんか。」と記されています。
 私達は大地の実りを待つ農夫のような者、また、バプテスマのヨハネも、心から主を待つ人であったように、私達もその日を〈待つ〉ことの中に生きるのです。主の御降誕日を待つだけでなく、すっかり主が私達の中においでになる日を待つ者とされていることを忘れないでいましょう。クリスマスは、その日の先取りとしての喜びを味わうものであります。

 

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