12月23日 降臨節第4主日(A年)

司祭 ヨシュア 文屋善明

偕(イザヤ 7:10-17)

 「おとめが身ごもって男の子を産む」という預言者の言葉は、神を信じているのか信じていないのか「煮え切らない人間に」対する神の行為を意味している。ハッキリ言うと、神を信じたら救うが、もし信じないなら救わないということではなく、たとえ神はご自身を信じてもらえなくても、あなたを救うという約束である。その徴が「インマヌエル」という名前である。
 この「おとめ」という表現が処女を意味するのか、そうではないのかということについては、古来よりいろいろな解釈があり、正しい答えはない、というのが最も正しい答えであろう。あの有名なマルチン・ルターは、この言葉が「結婚している女性」を意味しているという聖書的根拠を発見した者に100グルデンを与えると懸賞金を出したという噂があるほどである。もっとも、この100グルデンという金額がどれほどの値打ちがあるか分からないし、その結果について何の報告もないので、嘘か本当か不明である。ともかく、このイザヤ書7章14節の「おとめ」という言葉については確定したことは何も言えない。
 それよりも重要な問題は、なぜ神はアハズ王を救われたのか、ということである。それは彼の信仰によるのではなく、ダビデの血を受け継いでいるということに基づいている。この言い方には、何か「血筋」とか「家柄」というものが、重視されているような感じがするし、それは新約聖書では否定されている思想でもあるように思う。しかし、問題は血筋や家柄ではなく「神の約束」である。神は人間側がどのように「ふらふら」しても、その約束を絶対に守られ、実行される。それが「インマヌエル」の預言である。
 ところで、イザヤの「インマヌエル預言」は初代教会において、主イエスについての預言として解釈され、当てはめられた。マリアから生まれる「イエス」こそ「インマヌエル」であるという解釈である。(マタイ 1:18-25)主イエスにとって「インマヌエル」という名前は、いわゆる呼び名ではなく、主イエスがわたしにとって何であったのかということについてのキリスト者たちの告白である。主イエスはわたしにとって「インマヌエル」であった。
 では、インマヌエルとは何か。その説明がマタイによる福音書の1章23節である。「神は我々と共におられる。」主イエスと出会い、主イエスを知り、主イエスを信じたとき、わたしたちは「神は我々と共におられる」ということを体験した。この「共に」という言葉であるが、ギリシャ語の聖書でも、また欧米系のどの翻訳でも、特別な意味合いを込めているとは思えないが、明治時代の日本人キリスト者たちはこの「共に」という言葉に特別な思いを込めたようである。明治時代に翻訳された文語訳聖書では、この「共に」という言葉の漢字に「偕」という字が用いられている。この「偕」という字は「つれだつ」とか、「同伴」という意味で、古語に「偕老同穴」という言葉があり、これは夫婦のちぎりが非常にかたく、永遠に変わらないことを、仲良く年を取り、死んで一緒に葬られるという意味である。「一緒に居るならば、どんなに苦労しても、そこは天国である」というときの「一緒にいる」というのが、このインマヌエルである。神がその様にわたしたちの共におられるということが主イエスにおいて実現した。これがクリスマスである。

 

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