司祭 パウロ 石井義雄
二十一世紀初頭には様々な事が起こりました。中でも忘れられない事は五月十一日朝、初島幼稚園遠足の日に脳梗塞を起こし緊急入院した事と、九月十一日米国に於ける同時多発テロの勃発でした。共通している事は「思いがけない出来事」という事でした。勿論原因がなかった訳ではありません。しかし私たちには知る由も無いことでした。聖書に依れば、「地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:2)「神は言われた」(創世記1:3)とあります。このように聖書全体は神の言で成り立ち、全ゆるものが神の言によって出来ていると語っています。今、実は分からない五月と九月の二つの出来事で神は何を語りたいのかを解らねばなりません。
「初めに言があった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)「万物は言によって成った。」(ヨハネ1:3)。言は神であり、神は私たちに解る言葉を語られるのです。神が私たちに語りかけておられる事が具体的にどういう事なのか解らねばなりません。
「降誕祭 讃えて神を二人称」(津田清子)という句を最近読みましたが、第二人称というのは「自分と話す相手の名の代わりに用いる称、対称、汝、君、あなた、などの類」と広辞苑にあります。例えば、私たちの「マリアの賛歌」で「私は主を崇め、私の霊は救い主である神を喜び讃えます」と歌います。「主よ」「汝」と呼びかける如くに「神」「主」と言い換えて三人称で「神」を讃えているのです。「神よ」と話しかける時、それは「あなた」と二人称で呼びかけているのです。聖書や聖歌集では二人称はあまり見られませんが、私たちはこの事実について考える必要があると思います。「神」と言うとき、実はそれは「あなた」と言っているのと同じなのです。神に関わる事は三人称ではなく何時も二人称なのです。二人称として神に私たちは何を願い祈るか、その事が大切な事だと思います。今、神は私にどんな意図を以って何をなしたのか、それが知りたくて真剣に祈っているのです。神は私に何を指示しているのか。今こそ現実に立ち返ってどうすべきかを知る必要があると思います。神は私たちに現実的な言葉で語りかけておられるからなのです。私は神が語られる言葉通りにすればよいのだと思うのです。
神様に愛されている自分が本当に何をすればよいのか、今解った気がいたします。自分に死ぬ事が必要だったのです。自分自身が死ぬ事が、神の永遠の生命を頂く事になるのでした。牧師としてこの道を歩み、今やっと自分自身に死ぬ事が本当に必要だったのだとわかりました。