1月13日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(A年)

司祭 アンデレ 佐藤 徹

イエスの洗礼【マタイ3:13-17】

 イエスが洗礼を受けられることは、洗礼者ヨハネが逡巡したように、わたしたちの中にもなぜという気持ちがあることは否めない。
 このことは初期の教会においても大きな問題であった。しかしこの問題について、この福音書の箇所において、イエスの側からとヨハネの側からの答が与えられている。ヨハネはイエスの受洗の申し出を強く固辞している。ヨハネは自分の為すべき役割を明確に自覚して、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と言う。ヨハネとしては、むしろ、自分こそイエスから受洗すべき者であるとの思いで一杯であったのである。しかし、イエスの答は、『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』であった。ヨハネは、イエスが現れたことにより、自分のしていた洗礼の時は終わり、メシアであるイエス自身が洗礼を施す時が来ていることを自覚し、イエスに洗礼を施すことを遠慮している。しかし、イエスご自身は『正しいこと』として、神の意志に従って生きていくことの大切さを主張され、神に依りすがる者の生き方を示されたのである。
 イエスが受洗されたと同時に、天からの声があった。『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と。子なる神として心的に一体であることを告げるみ言葉である。と同時に、私たち人間を救うべきメシアとしての父なる神の宣言でもあると思われる。主イエスにとってご自分のこれからを自覚される重い重い宣言でもある。
 私たちにとって、このイエスの受洗は、私たちが受けている洗礼の意味を、私たちの在り方を示されている事柄である。ヨハネに対するイエスの対し方は、父なる神への謙虚さと同じであり、受洗によって神のご意志を受け入れている者の在り方であると受け止めたい。
 洗礼によって、キリストの肢体に継がれ、神の子とされた私たち、祈りとともに、励まし合って、この世で主イエスの代理者として活かされている者たちとして、主のみ跡を踏んで行きたいものである。



 

 

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