1月27日  顕現後第3主日(A年)



執事 マーク シュタール

神と沈黙

 今日の御言葉は今が顕現節であることを改めて思い起こさせます。顕現という言葉は、英語で"Epiphany"と言いますが、この言葉は、突然何かに思い至ったり、特別な経験をしたりした場合に一般に使われます。しかし教会では、1月6日の顕現日、もしくはその日から大斎節までの季節、顕現節をさして使われます。
 アドベントが、キリストが自分の中に初めて現れた日を記念する季節であるのに対して、顕現節は、世界の人々にキリストが現れた事を記念する季節です。
 残念ながらわたしたちの日々の生活の中で、何かが劇的に現れたり、指し示されたりすることは、そうめったにありません。
 私が初めてそのことに気がついたのは、何年か前に遠藤周作の「沈黙」を読んでいたときのことです。私にとっての小さな顕現の体験です。この小説は、17世紀に日本に来た二人の神父の話です。鎖国の時代でしたので、彼らが入国することも、いかなる布教活動をすることも違法でした。彼らは結局捕らえられ、迫害され、最初に信仰を捨てた神父を利用して、もう一人にも信仰を捨てさせました。
 最初に信仰を捨てた神父は、非常に憤慨し、神様に対して大変批判的になりました。彼は「私が信仰を捨てたのは、牢獄に入れられ、あのような人々の声を聞き続けていたとき、神様が彼らに対して何もなさらなかったからだ。人々がうめきながら苦しみ死んでいっているのに、なぜ神様はひたすら沈黙をなさっていたのか。」読者は当然そこに書かれている痛みや苦しみに対して同情するわけですが、同時に沈黙し続けた神様に対しての批判にも同感するわけです。
 神様が何もおっしゃらずに沈黙していたということは、神様が何も聞いておられなかったという意味ではありません。我々は先ほどの神父のように、自分の祈りの答えとしてはっきりしたものを期待しがちです。そのため、期待した形で答えが得られないと、ついがっかりします。もともと、神様は私たちの願いを聞き届ける存在ではありません。一方、私たちは自分の求めるものを願い、自分の求めるものを待つことばかり考え、とかく神様が自分に与えようとしておられるもの、または既にお与えになったものに気がつきません。神様の沈黙は、神様が自分に耳を傾けておられ、神様のご計画の時が満ちるのを待つよう示そうとされていることを意味します。神様の最大の顕現、言い換えれば、神の子がこの世に現れたことは、また別のことを意味しています。顕現節は、この世にキリストがどのように現れているかを考える時だと言えます。
 カルカッタの偉大な慈善者は、「何故、死に逝く人々のうめきを聞きつつその現実に向き合えるのか」と誰かに聞かれたとき、彼女は自分のホスピスでは、沈黙が神様の精神であるから、努めて静かにしているということ、そして、キリストは彼女にとってそこらじゅうに現れていると答えたのです。その人マザー・テレサは、「飢えている人を見るとき、私は、ここに飢えているイエス様がいる、食べ物を差し上げようと思うのです。疲れ果てた裸の子供を見たら、私は、ここに疲れ果てた裸のイエス様がいる、衣服を差し上げ、休ませましょうと思うのです。孤児がいたら、私はここに孤児のイエス様がいる、ここを家にして頂こうと思うのです。」とおっしゃいました。
 どうぞ、私たちがキリストを覚え、互いの中にキリストを見出すことができますように。

 

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