3月3日  大斎節第3主日(A年)


司祭 ヨシュア 柳原義之

「赦し」のむずかしさ

 「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」。
 いつも主の祈りのこの部分に来るとドキッとする。本当に自分は「人をゆるし」ているだろうか。いやむしろ、「赦せないでいるあのことこのことがあるじゃないか!」と自分の中のもう一人が叫んでいる。「おい、おい、司祭がそんなこと言ってていいのか」と誰かに言われるような気がする。でもやっぱり正直に「赦せないでいる」ことがある。
 イエス様と自分との関係で考えてみると、今度は反対にいくつも赦していただいている自分を見つけることが出来る。死刑の宣告を受けても死に切れない自分のために確かにあの十字架に架かって下さったイエス様を見て、本当に申し訳なく、ありがたく思う自分がある。
 では、自分に対しては甘くて、他人に対しては厳しい、これでは聖書の誰かさんと同じじゃないか、とまたもう一人の自分が抗議してくる。
 これを読む皆さんにはそんなことはないのかな?きっとすばらしい「クリスチャン」の方々だから、「何を馬鹿なことを言ってるんだ。赦すのは当たり前じゃないか」と非難されるんだろうな。でも、本当にすべてのことについてあなたは赦せているの?本当に心のそこから、もしくは分かっているんだけど、どうしても赦せない出来事はないのかな?「ない」「すべて赦せる」そんな方はぜひメールして欲しい。その秘訣を教えて欲しい。「簡単さ、すべてをイエス様のに委ねればいいんだ」と言われるかも知れない。「あなたが本当の十字架の意味が分かってないからだ」とお叱りを受けることと思う。
 でも、もし、表面的に「赦し」を捕らえていて、心の奥底にどす黒いものがあるより、赦せないでいるそんな私を神様の前にさらけ出す方が、なんだか正直のような気がする。
 「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)
 「神様、私は自分のことでたくさんのことを赦して下さり、今を生きています。でも、赦せないでいるいくつかのことがあります。少しずつ赦せることが多くなりますように、そして愛することが増えますように。そして主の祈りでドキッとしなくなりますように。アーメン」

 

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