3月10日  大斎節第4主日(A年)



執事 アウグスチヌス 梁村和成

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)
 上の言葉は、エルサレムはシロアムの池で先天性の目の見えない人を癒される際のイエスの言葉です。弟子たちがこうなった原因をイエスに尋ねます。これだけイエスと間近に接していてもまだなおイエスがどのような返事をされるかを事前に予測出来ないのは、如何に弟子(人間)が心の鈍い存在かを端的に現しているように思います。このことは伝統的ユダヤ教の罪・悪に対する理解が基となっていることのようです。
 差別される本人がどのような思いで人の声を受け止めるか、などということを考える者は多くはいません。目の見えない状況の困難さを正しく理解して入るのは、本人を含めた々境遇の方々のみで、家族といえど思いを推し量ることは難しく、他人ならばなおされでしょう。しかし、たとえ別の事柄にしても、悩みを抱えている本人のみを裁こうとする体質があるのは、聖書の向こうの話にとどまりません。実にこの聖句を読んだ私たちも同類なのです。
 私たちはすぐに原因を手近な、目に見えるところに求め易く、誰かを裁きたがるのです。私自身もそうなのです。しかし、裁いたところで本当の満足など得られませんし、それは自己満足に過ぎず、なお『誰が悪いのか』という思いは拭えないのです。
 一体誰がその人の病気を『罪の報い』と断罪することが出来るでしょうか。罪と恵みを秤にかけることの出来る方は神様お一人です。私たちが感じる恵みは、神様が直に与えてくださるものの中の僅かかもしれません。同じく私たちが罪悪を認識できる部分も、神様から見るならほんの僅かかもしれません。しかし私たちは、時として神様の上を行く"断罪"をすることがあります。しかし、表に見えていない恵みもその人の中にあるはずなのです。いかに多くの罪にまみれ、後ろ指をさされているとしても、私たち自身が気づかない恵みが、より多く与えられているのです。誰だって好きで病気になるわけではない。なったらもうお終いなのか。
 そうじゃない。「こいつは私より悪い奴だ。だからこうなったんだ。」という優越感のような、そういった周囲の思い(期待?)を遥かに超えたところを指し示しておられるのが上の言葉なのです。じつに神様は、「お前たちの目が見えていないからだ。だから、この人をつかって私の業を現すのだ。」と聖書を読む私たちにも厳しく問うているのかもしれません。まさにこの人の目(心)に光を差し込ませることで、私たちの目(心)にも光を差し込ませようとされるのかもしれません。その事が出来るのは神様のみですし、その業の一部に参与させていただきたいと願っているのが、私たちなのです。
 神様は私のように、欠けに欠けた者を、器として用いようとして下さいました。このことに『感謝』以外の言葉が見つかりません。願わくは、恵みを求めることより、恵みに感謝する心がさらに与えられますように。


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