3月17日  大斎節第5主日(A年)

 

司祭 ミカエル 藤原健久

無責任

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。……すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙T13:4-7)

 教会で結婚式を挙げる場合、牧師からキリスト教の結婚についての教えを受ける。その中で最も大きく取り上げられるのは、言うまでもなく愛についてである。愛は感情の問題だけではなく、生き方である。恋愛感情だけでは、夫婦生活は成り立たない。甘い思いはすぐに消えて、厳しい現実生活が待っているかもしれない。しかし厳しい中でも、互いに支え合い、共に生きてゆくのが愛の生活である。愛は、相手に対する責任とも言えよう。
 わたしたちの愛の根源は、神から来ている。天地万物を創造された神は、この地上の全てのものを愛しておられる。人間一人一人も、神から愛され存在している。わたしたちが誰かを愛することが出来るのは、わたしたちの内に神からの愛があるからである。わたしたちは、神の愛に倣おうとする。神が愛しておられるように、わたしたちも全てのものを愛したいと思う。私たちの愛は、この地上のすべてのものに及ぶのである。
 わたしたちが愛するこの世界は、神様が作られた世界であって、美しいもの、感動を起こさせるものに充ちている。しかし同時に、人間の罪によって、悲しいことや悪事にまみれているのもこの世界である。世界の全てを愛するとは、それら全てに対して、責任を持つということである。世界で日々起きている戦争、争い、飢え、病い…。この中で自分に無関係なものは一つもないのである。自分には責任があると深く自覚し、厳しい現実と向かい合うとき…、わたしたちは沈黙せざるを得ない時がある。安易な慰めや、根拠のない楽観論を語ることが許されない時があるのだ。沈黙しながら、しかし神の救いのご計画を信じ、祈りながら、自らの為すべきことを日々行わねばならない。
 テレビや新聞を通し、この国の指導者たちが、日々、声高に語っている声を聞く。しかし、その言葉の中には、言葉面ほどには誠実さがないことを、わたしたちは知っている。胸を張って、格好の良い言葉を、大きな声で語ることによって、彼らはどれだけ自らの責任を引き受けようとしているのだろうか。言葉を吐けば吐くほど、責任を誰かにかぶせようとしているのではないか。この社会は、今、無責任に満ちているように思う。
 わたしたちの愛する人々の中で、言葉数は少なくとも、しっかりと信仰生活を送っている人がいる。時には一人の肩には重すぎるほどの課題を、時には自分が巻き起こしたのではない問題を、自分の責任として引き受け、黙々と取り組む人がいる。そのような生き方を選びたい。



 

 

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