4月14日  復活節第3主日(A年)



司祭 ヨハネ 井田 泉

心が燃えていたではないか(ルカ24:13-35)

 私の学生時代というのは学園紛争の時代でした。大学の建物は封鎖され、1年の終り頃から1年ぐらい、授業がありませんでした。私はその中で、何かをしなければならない、しかし何もできない、というあせりと無力感を陥っていました。
 当時、日本聖公会には全国規模の学生組織、SCM(Student Christian Movement)というのがあって、毎年夏に研修会を開いていました。スタディ・カンファレンス、略称スタカンといいました。大学3年の夏に、私は誘われてそれに初めて参加しました。主題講演は、これまで教会で教えられてきたキリスト教信仰の土台を覆すような、過激な話でした。その話の終りのほうで講師はこう言いました。「今どきイエスの復活を本気で信じているような人間は一人もいない!」私は衝撃を受けました。自分がこれまで素朴に信じてきたことは全部根拠のないものなのか。勝手に人間が作り出したものなのか。
 それ以来、「復活」ということが私にとって苦しみの中心になりました。礼拝でサーバーの務めを毎週のようにしながら、ひょっとしたら礼拝の初めから終りまで、使徒信経、ニケヤ信経の初めから終りまで、すべてが嘘なのかもしれない。しかし自分はキリスト教を離れて生きていけるとは思えませんでした。天地創造から、十字架まではなんとか受け入れることができるようにも思いました。けれどもなぜその後に復活ということがあるのか。なぜ信じる者、信じたい者にわざとつまずきを置くかのように「復活」ということを言うのか。復活がわからないことがたまらない苦痛でした。
 あるとき、家から大学に行く電車の中で本を読んでいて、その関連で聖書を開きました。ルカによる福音書第24章の、エマオ途上の弟子の物語でした。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。……」
 二人はやがてその人を家に迎え入れて、一緒に食事の席に着きます。その人は「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」
 そこまで読んだとき、私の心も熱くなったのです。何かが自分の中で燃えるような気がしたのです。その熱いもの、暖かいものが、1週間たっても、ひと月たっても消えません。うれしかった。これが復活ということなのか。理論的に説明がついて納得したわけではありません。しかし復活のイエスが生きておられる、ということが力をもって迫ってきたのでした。
 失望落胆してエルサレムを逃れた弟子たち。女の人たちが伝えてきたことを信じることができず、話し合い論じ合っていた弟子たち。その弟子たちを追うようにしてイエスが、イエスご自身か近づいて来られた。イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩き始められた。復活がわからないといって悩んでいる私に、イエスご自身が近づいてきて、一緒に歩んでいてくださった。わからない、苦しい、とつぶやいている私に耳を傾けていてくださった。その事実が先にあって、あとからそれに気づいたということなのです。
 イエスの言葉を聞きながら弟子たちの心が燃えました。燃えたのに、それでもイエスに気づきませんでした。その弟子たちのために、イエスの心が先に、ずっと前から、燃えて、燃え続けていたのです。

 

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