4月28日  復活節第5主日(A年)



司祭 ヨハネ 石塚秀司

「闇の中でこそ復活の命への道を照らせ」(ヨハネによる福音書14:1-14)

 心から愛と尊敬をもって信じていた人との別れは辛く心が動揺する。十字架の受難を前に別れの宣告を受け動揺しているお弟子さんたちに、主イエスは「心を騒がせるな、神を信じなさい。」と言われ、歩むべき道が分からないというトマスに「わたしが道であり、真理であり、命である」と語られる。
 最近ニュースでよく報じられる事件に、親などがまだ幼い子どもを虐待し死に至らしめるという痛ましい事件がある。つい先日も6才の子どもが親の暴力の犠牲となったと報じられていた。その事件はどのようにして起こったのか。母親が再婚した。ところが、再婚した夫に子どもがなつかない、言うことを聞かない、そのことに腹を立てた夫はしつけと称して暴力を振るう。母親も「お前が甘やかすからだ」と夫に叱られ、同じようにしつけと称して暴力を振るう。それが日常的となり、遂に子どもの命が奪われてしまった。どうもそういうことらしい。こうしたケースは、この件だけではなく多くの幼児虐待事件に共通しているようにも思う。そして、ニュースになっているのは氷山の一角に過ぎないと思う。
 毎日暴力を受ける中で、子どもはどんな思いでいたのだろうか。それを思うと胸が痛む。まだ幼い子どもにとって唯一愛し愛され、信じ頼れる存在であるはずの親が恐怖の対象でしかなくなるとしたら、そんな悲しく辛いことはない。なつかない、言うことを聞かないからといって、感情任せに暴力を振るったところで、どうして子どもは親に心を向け、耳を傾けるであろうか。何か大切なものが欠けている。自分のことを本当に思ってくれている、愛してくれていると感じるところに信頼が生まれてくる。その信頼関係の中で、子どもたちなりにその人の声を聞いていこうとするようになる。
 このような信頼関係を子どもとの間に造ることができずに、自分の感情や願望の裏返しによって、時には子どもの人格や命までも奪ってしまうような親や大人が、今日本の社会に増えているということではないだろうか。暴力が横行するところでは人々は心を閉ざす。信じることが失われた社会は暗く心が貧しくなる。今私たちの歩むべき道はどこにあるのか。暴力や分裂、心の闇を生み出して止まない家庭やこの社会に、愛と信頼を回復する命に至る道はどこにあるのだろうか。
 主イエスも、死をもたらす闇の力によって十字架へと追いやられた。2000年経った今も人間の世界は同じことを繰り返している。言うことを聞かないと言って幼い命を死に追いやり、そうした社会を見過ごしにしている大人たちに、十字架へ歩む主イエスを取り巻く群衆と同じ姿を見る。
 しかし、その闇の力の只中にあってそれに勝る命の存在を示してくださった。復活の命を! そしてその命に至る道を示してくださった。それはまた、この日本に真の愛と信頼、平和を回復する命または道であると信じる。深い闇の中にあればこそ、この真理と命へ至る道を照らす灯火を、私たちクリスチャンは灯し続けなければいけない。
 「これらのこと(聖書)が書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシヤであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネによる福音書20:31)

 

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