5月5日  復活節第6主日(A年)



司祭 サムエル 門脇光禅

わたしはぶどうの木【ヨハネによる福音書15章】

   
 「日本聖公会京都聖三一教会」の聖堂に座って目を上げれば梁の四隅に何やら彫刻が施されている。よく見るとみごとに実のなったぶどうだ。そういえば教会の屋根に上がった大きな十字架のすぐ下にもぶどうをデザインした彫ものがある。聖堂に戻って説教台、そこにもたわわに実をつけたぶどうの木が彫刻で飾られている。本日のヨハネによる福音書15章のみ言葉が優しく聞こえてくる。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」ここで言われている「実」というのはこの世における「成功」つまり地位や富、名声ではない。信仰におけるところの実のことであろう。実を結ばないとは不完全な信仰、未熟な信仰という意味だろう。そんな枝は神さまがみずから取り除くと警告している。実を結ぶものは、ますます豊かに実るように手入れが施されると言われている。当時、イエスさまのしるしによって、多くの信じるものが出来ていった。しかしひとたび、キリスト教がユダヤ教正統派から異端として宣告されるや多くの者が信仰から脱落していった。それに対して、危機に直面してもなおイエスをキリストと告白する者は、より多くの実を結んでいったのであろう。信仰というものはたえず前進していくことによって、実りをもたらすものである。イエスさまの言葉を聞いたものは既に清められている。しかしながら絶えずつながっていることこそ大切なのだ。「つながる」原語はメノー、つまり「とどまる」ことと同じ意。イエスさまが父にとどまり、一体であるように弟子たちも、イエスさまにとどまっていかなければ、実を結ぶことができない。さらに5節を読むとイエスさまを離れては何もできないとまで言われている。人間はその固有の資質によってキリストの業を行なえるのではなく、キリストにつながっているからこそ、その力の継続性が与えられるのである。複雑かつ多様化された世界の中で福音的に生きることがだんだん難しくなってきている気がする。自分がどこに立っているのかしっかり考えなければならないときもある。そういえばぶどうの木は、枝がややこしく絡みあってはいる。でも、上に上に伸びるのでなく横にそして低く伸びてゆく。遠く幹から離れていても実はなっている。聖堂を初めて訪れる方々に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」とこの聖句の話をする。話しながら自分もいつまでもキリストにつながっていたいと思っている。

 

 

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