5月12日  復活節第7主日・昇天後主日(A年)



司祭 パウロ 北山和民

「彼らのためにお願いします。…彼らはあなたのものだからです。
 わたしのものは全てあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。
 わたしは彼らによって栄光を受けました。…聖なる父よ、わたしにあたえて
 下さった御名によって彼らを守ってください。私たち(教会)がひとつであるよう
 に彼らもひとつとなるためです。                (ヨハネ17章)

*わたしたちが祈っているのではなく、わたしたちこそ祈られているのです。
 イエス様の祈り、イエス様の教会への深い思いを黙想しましょう。

 次の日曜日は聖霊降臨日、教会の誕生日と言うべき日です。「イエス様の霊」の形、キリストのからだが教会となっていることを記念し、特別の礼拝をささげます。しかし「わたしたちの思いではなく、キリストの思いがこの教会を教会にしている」というのは、しばしばわたしたちが忘れることです。聖餐式も「主の晩餐」であると知りながら「わたしの晩餐、何々司祭の講演会」にしてしまって、自己満足か逆に恐れだけを持って帰る礼拝になってはいないか、この期節に省みなければなりません。
 「教会の存在がキリストの実在を現しており、私たちが礼拝(共同体)につながることが救いとなる。」 このことはヨハネ福音書の救済論というべきものです。

 日曜日の教会の礼拝に行くとき、こういう想像をしてみるとよいでしょう。もし、高齢寝たきりになった父親が、「死ぬ前にちょっと話しておきたいことがあるのだ」と電話して来たとする。あなたはあらゆる予定をキャンセルして、都合をつけて話を聞きに行くでしょう。つまり「わたしが礼拝に行ってやっている」のではなく、「礼拝に招かれている」のです。 わたしたちはのっぴきならない「神からの招き」を受けてしまっているのです。この招きとは、「利己主義に死ぬ」ことと、「共に生きる場に生きる」ことの二つで一つのことです。この招きの真剣さを表しているのが、今日の「イエスの告別の祈り」なのです。他にマタイ福音書が記す一連の譬え話、例えば22章「婚宴のたとえ」も同じく神の熱心さ、即ち私たちが教会という共同体に招かれていることの底知れぬ幸せと、拒んでいる己の不幸を教えているのです。
 今日の福音書は「私たち(教会)は祈られ、礼拝する場所へと招かれている。これが主の愛であり、遺言である」というメッセージを発しています。この主のご遺志を深く黙想したなら、自分たちの教会の姿を感謝をもって見つめ直し、新たな心でますます魅力ある礼拝をして行くことが出来るでしょう。

*願い祈りましょう。「キリストを生きる人になりたい」と。私の思いではなく、「キリストの祈り」によって、教会がこの地で「共に生きる祈りの場所、キリストの体」になりますように。アーメン

 

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