5月26日  三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(A年)



執事 サムエル 小林宏治

「弟子たちを派遣する」【マタイによる福音書28:16-20】

  まず、聖公会の礼拝式文、祈祷書を思い浮かべてほしい。礼拝の最後に執事または司祭が「ハレルヤ 主とともに行きましょう」と唱えると会衆が「ハレルヤ 主のみ名によってアーメン」と唱える。この言葉によって式文の言葉が終わる。聖餐式の最後の言葉である。聖餐式はユーカリストと言われる。感謝・賛美の祭りである。聖餐式において、神に賛美を行い、感謝を献げる。この行いはキリスト者が大切にする礼拝と呼ばれ、また宣教と呼ばれる。神がイエス・キリストを通してなされた救いの働きに感謝して行われる。そして、この最後の言葉は、派遣というイメージを持つ。礼拝で完結するのではなく、神とともにある私たちが、この世の中で神とともに働くというイメージである。
 では、今日の聖書の箇所はどのようなイメージを持つだろうか。弟子たちの派遣というイメージではなかろうか。先ほどの祈祷書の箇所と同じイメージを見出すことができる。そこでこの派遣ということを考えてみたい。
 聖書には、弟子たちが約束の場所それもイエスが指示しておかれた山に登ったとある。イエスの指示により弟子たちはイエスに会った。そして疑う者もいた。その中で、イエスは言葉によって弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と示されたのである。弟子たちはイエスに会った。それは直接に復活の主に出会ったのである。ではマタイ福音書が書かれた時代にはどうか。共同体の祈りの場、教かいの礼拝において人々はイエスに出会った。私たちもまたそうである。出会ったものは、それだけでは終わらない。次がある。ただ、言われてそれを行うのでもない。そこには「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉がある。一人ではない。確かに一人ではない。わたしたちの歩む道に共におられる方がいる。この確信、この感覚、それが私たちに力を与えてくれるのである。マタイによる福音書にはイエスの昇天の箇所がない。それは私たちから離れていないところにイエスと位置付ける。まさに近くにイエスの存在を感じさせる。いつも共におられる方が、私たちを集め、また派遣されるのである。派遣されるのは、集められたものすべてである。すべての人がその働きを委ねられている。この大きな流れをわたしたちは心に留めなければならない。神と共にある私たちが教会に集められ、神を賛美し感謝する。その私たちが教会から派遣され、神と共にすべての民を弟子にすることを。


 

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