6月2日  聖霊降臨後第2主日(A年)



司祭 ヨハネ 古賀久幸

神の愛に生きる

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」マタイによる福音書第7章21節

 どちらかと言えば(その典型だと家族は言うが)直情径行型の私は「祈るだけで良いのか?」、「今こそ行動が大切だ」等の問いかけやスローガンに弱く、「そうだ、そうだ」と後先かまわず動いてしまうのですが・・・。たいていは熟慮が足りずあえなく頓挫。周りに迷惑をかけ、自己嫌悪に陥り、結局砂の上に家を建てた愚か者のように雨に流されてなんにも残らないことばかり。数々の失敗を繰り返したあげく至りついた結論は、「行動すれば良いという単純なことではない。」と言うことごとく当たり前の事とは情けない。
 イエス様に向かって「主よ、主よ」と言う者。力みが感じられますね。「私こそは熱心です。私こそはあなたの正しさを身を持って体現しています。こんな私を見て見て」。口にはしないが態度で訴える者。人より動いてさりげなく自分の熱心さをアピール。ちょっと目立ちたいんですね。その心の奥にある欲求はやはり認められたいんですよ。私自身のことだから良くわかります。でも、イエス様はこんな人間が大嫌い。ショック。
 「天の父の御心を行う者」。考えてみれば、熱心さを装いながら自分のことしか考えていないじゃないか。難しいなぁ。「天の父の御心」か。
 この言葉のちょっと前、イエスさまは「空の鳥や野の花をご覧。それらは刈り入れたり紡いだりするか?なのに、神様は豊かに養ってくださる。」と語られた。そうか、愚かにも神に認められたいために熱心さや正義感を装いながら自分を誇示する必要はないのか。安易な行動主義はたいていの場合、心の中に何か利己的な動機、あるいは単純な自己正当化の種が潜んでいる。反対する者に対して、「判っちゃいない。」「日和見だ。」なんてよく口にするもんなぁ。
 「天の父の御心」って、鳥を養い花を飾られる以上に愚かで罪ある人間を愛してくださるって言うことかもしれない。それを行うことは、御心を生きること。認めてもらいたい、私は正しい、というちっぽけな心を離れて、神の愛の中に生きること。
 どんなに大義名分があっても人間の行動がそのまま神の御心であるはずが無い。また、これが神の御心だと言ってはならない。
 神の愛の中に在ること、生きることへのイエス様の招きがここにある。

 


 

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