6月9日  聖霊降臨後第3主日(A年)



司祭 ステパノ 高地 敬


 どこの教会でも、「私どもは信仰が弱くて、神様に何でもゆだねるということも出来ないし、教会で一所懸命ご奉仕するということもできなくて、本当に申し訳ありません」というような声を聞きます。そんなふうに言っておられる気持ちはよく分かります。自分だって(牧師ですが)、信仰が不動のものだなんて言えないし、神様を忘れていることがとても多いように思います。自分のためにも皆さんのためにも、お手本になるようなちゃんとした信仰を持たなければいけないのですが、なかなかうまくはいきません。

 ただ、時々考え込んでしまいます。「強い信仰ってどんなものだろうか。」神様は私たちの弱さを知ってくださっていて、それを赦し、いつも変わらずお恵みを下さる。そのことをしっかりと信じる。強い信仰を持つ。あれっ、何か変ではありませんか。私たちは弱いのに、強い信仰を持つ。それじゃ、私たちは本当は強いのではないでしょうか。信仰を強く持つことができるのだったら、私たちは本当は強いということだから、神様の救いはいらないのではないでしょうか。それとも、弱い私たちだけれども信仰だけは例外で、強く持つことができるのでしょうか。この辺まで考えるともうややこしすぎて、いつもさっさと寝てしまいます。

 前に北の方のものすごく寒い国のようすをテレビで映していました。春になってもマイナス二十度という地方です。そこに住む人々にインタヴューしていました。「こんな寒いところで生き抜くには何が必要ですか。」がっちりした立派な体格の男性がそれに答えて、「それはやさしさです。強いだけでは生きていけません」と言っていました。これを聞いて本当に驚きました。逆境の地だからこそ、いかなるときも弱音を吐かず、強くたくましく生きなければならないという答えを、無意識のうちに予想していたのです。けれども答えは逆でした。

 「強い信仰」のことについて簡単には答えられませんが、少なくとも、「強さ」は私たちにとって第一に必要なものではないようです。むしろ、弱さをお互いに認め合える「やさしさ」こそが、他のものとは比べようもなく大切なものなのではないでしょうか。イエス様の十字架の上の姿は、そのことを私たちに示しておりました。信仰とは強い弱いではなく、「神様や人のやさしさを受け取っていること」かなと、このごろ考えています。

 


 

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