7月7日  聖霊降臨後第7主日(A年)

 

司祭 パウロ 松本正俊

 主は「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃいました。何故なら「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いから」と。(マタイによる福音書11:28-30)
 「軛」とは、二頭の動物を一組に合わせるために使われた 木の棒と網とからなる道具のことで、多くは奴隷状態を表す象徴として使われます。しかし肯定的な意味もあり、例えば知恵文学の一つであるシラ書では、知恵の前でひれ伏して教えを乞う態度が「軛を負う」と表現されていますし、エレミヤ書では、民が神の前にひれ伏して教えを乞うという態度が「軛」と表現されているのです。つまり、神さまご自身からあるいは神さまが与える指示から教えを乞うことが「軛」であり当事のユダヤ教指導者も、そのような意味で「軛」として律法の遵守を求めていました。律法を実行していると誇る彼らは、何とも思わなかったかも知れませんが、ユダヤ教指導者、ファリサイ派の人々が主張する律法遵守の教えに押しつぶされたり、圧力感で疲れてしまう人々が多数いたことと思います。
 その人々にイエスさまは語られたのでした。「疲れた者、重荷を負う者」に対して、つまり律法遵守の教えに苦しんでいる人、重荷をもっている人、疲れた人に対して、もっとはっきり言えば、当時「罪人」と呼ばれていた人々に対して語りかけられたのです。「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」律法遵守は必要ないよ、ということです。直接イエスさまのそばに居るだけでいいんだよ、ということだと思います。主イエスは事実、律法主義と対峙されたお方であり、抑圧にめげない方でした。ご自分で身をもって、体験されあかしされたのでした。従って「疲れた者、重荷を負う者」の側に主が立たれると、深い憐れみと共感をこれらの者に示され、確かに「安らぎ」を与えるお方として存在された、と言っていいのだと思います。私達はこの話を、特に律法主義的呪縛からの解放というテーマを、具体的に現代の教会生活の中でどのように受けとめ、どのように神と人々に伝えるわざとして展開するのか、そのあたりが問われていると考えます。

 


 

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