7月14日  聖霊降臨後第8主日(A年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

『主の祈り』に寄せて

 今年五月末の日本聖公会総会で、聖公会とローマ・カトリック教会との、共通訳『主の祈り』の使用が、正式に決まりました。  

  天におられるわたしたちの父よ、
  み名が聖とされますように。
  み国が来ますように。
  みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
  わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
  わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
  わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。
  国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。   アーメン

 このように洗練され、精神化された言葉が用いられ、リズミカルで覚えやすい『主の祈り』が誕生しました。今後、わたしたちはこの共通訳『主の祈り』を、様々な場面で用いることになるわけですが、以下に、確認しておかなければならない事柄について、少し述べたいと思います。
 マタイによる福音書六章九〜十三節の『主の祈り』を、ギリシャ語原典から直訳すると、次のようになります。

  天の中におられる私たちの父よ、
  あなたの名は崇められよ。
  あなたの王国(支配)は来い。
  あなたのみ心(意思)は現れよ。
  天の中でそうであるように地の上にも。
  私たちの日ごとのパンを、今日私たちに与えよ。
  そして私たちの負債を赦せ。
  そして私たちが私たちの負債のある人に赦したように。
  そして私たちを試みに対して導き入れるな。
  しかし私たちを悪い者(悪魔)から救え。

 共通訳『主の祈り』と比較して、その違いがはっきりしていることが二つあります。その一つは〈切実感〉の違いです。直訳の『主の祈り』の「〜来い、〜赦せ」の方が、共通訳『主の祈り』の「〜来ますように、〜おゆるしください」よりも〈切実感〉があります。もう一つの違いは、〈生活感〉の違いです。直訳の『主の祈り』で用いられている「パン・負債」の方が、共通訳『主の祈り』で用いられている「糧・罪」よりも、〈生活感〉があると感じるのは私だけでしょうか。
 イエス様とその弟子たちが、空腹をかかえながら貧しい人々に寄り添い、ひたすら神の支配を求めたように、私たちも『主の祈り』の根底に、〈切実感〉と〈生活感〉があることを決して忘れてはなりません。

 


 

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