7月21日  聖霊降臨後第9主日(A年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

毒麦にどう対処するのか?(マタイによる福音書13章24〜30節)

 福音書の中には、イエス様のなさったたとえ話が多く記録されています。その中でも、農作業に関係する譬え話は数多く語られています。今日のたとえ話もまた、そのようなものの一つです。
 畑に良い種をまいておいたら、いつの間にか敵がやってきて、毒麦の種をまいていきました。いつの世にもよきことの妨げをなさんとする者がいるのでしょう。芽が出始めたら、良い麦の間に、毒麦もちらほらと現れました。もしあなたが農夫ならどうするでしょうか。良い麦も、毒麦も、始めのうちは良く似ていて見分けがつきません。成長すると今度は互いに根が絡んで毒麦だけを引き抜くことは困難になるのです。実際の農夫たちは、収穫前までそのままにしておいて、時がきたら、始めに毒麦を抜き、それらを処分し、後から良い麦を収穫したようです。たとえ話に出てくる主人も同じように判断し、当分は「毒麦をそのままにしておきなさい」と言いました。
 自分たちの間に悪が存在するとき、どう対応するかという課題のようです。
 何が悪なのか、そうでないのか、わたしたちの浅はかな知識では判別が難しいのだから、判断を早まるなということでしょうか。けれども、悪を「そのままにしておきなさい」という主人の言葉には、見て見ぬ振りをしているのではないかという疑いの気持ちが起こってきます。しかし、そのあとに「そのままにしておいて、刈り入れの時に毒麦だけを引き抜いて焼きなさい」という主人の言葉が記されています。そこに、主人の断固たる姿勢が示されます。そのままにして、あやふやにしてしまい、だれが責任者かも隠してしまうという、無責任体制とは違うのです。よきものの命を一つも失わないためにそのほうがよいという判断がされているのです。刈り入れの時、豊かな命はことごとく回収され、毒麦は言葉のとおり焼却された事でしょう。
 アフガニスタンを巡る各国の対応の中に、この主人のような姿勢があったらなあと思わずにはおれません。

 

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