7月28日  聖霊降臨後第10主日(A年)

 

司祭 マタイ 西川征士

教会は祈りの奉仕者

 今週の教会生活の課題は特祷で明らかなように「祈り」ということです。祈りは教会生活に欠くことが出来ないものです。
 今日の旧約テキストでは、紀元前900年代に活躍したイスラエル王国のソロモン王が王位に即位した日の逸話が書かれています。ソロモンが12〜14歳であったが、即位の夜に神の「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」との語りかけに対して、彼は「わたしは取るに足りない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。・・・どうか善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい。」と祈りました。王は国民を治めると同時に国民の色々な訴えを裁くという任務を持っていたので、最も必要なことは、善と悪を判断する力、何が善で何が悪であるか、何が正しいことで何が間違ったことかを識別する心でした。ソロモンが「自分のために長寿を求めず、富を求めず又、敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」ので、主は大変お喜びになりました。何と素晴らしい祈りでしょうか。教会の模範とすべき祈りでありましょう。
 ラインホルト・ニーバーという人の有名な祈りを思い起こしましょう。「主よ、この世には変えることの出来るものと変えることの出来ないものとがあります。変えることの出来るものについては、それを変える勇気を、変えることの出来ないものについては、それを受け入れる潔さを、変えることが出来るか出来ないか分からないものについては、それを識別する力をお与え下さい。」
 祈りは適切な祈りでなければなりませんが、他方、祈りは実際難しいという一面もあります。この辺のことを教えているのが今日の使徒書の記事です。聖パウロは「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と言いながらも、私たちの祈りに対して、キリストと聖霊が仲介者として「執り成してくださる」ということを三度も繰り返して教えてくれています(26節、27節、34節参照)。
 私たち人間が不完全であるように、私たちの行いも不完全、そして祈りも不完全な祈りばかりです。それでも祈れるのはキリストと聖霊による仲介、執り成しがあればこそなのです。不完全な祈りでも主の執り成しによって、完全な祈りとして浄化されるところに、私たちの祈りが成り立ち得るのです。キリストは十字架と復活によって、永遠の仲介者、執り成し者、永遠の代祷者となって下さいました。この意味で祈りは難しくても、どんな貧しい祈りであっても、主の執り成しを信じて祈る祈りは豊かな適切な祈りとなります。
 執事按手の時、大学の友達グループがお祝いのストールを贈ってくれました。その時彼らは言いました。「俺たちのことを祈ってくれよ」と。信者でない人でも聖職たる者の勤めを良く知っているのです。
 かつてモーセは神とイスラエルの間に立って神の戒めをイスラエルに伝えました。預言者たちも神とイスラエルの間に立って神の言を語り告げました。祭司達は神とイスラエルの間に立って、人間側の立場に立って犠牲の供え物を捧げました。いずれもイスラエルのために神に対して仲介者として、執り成しの務めを果たしました。
 聖職者の第1の務めは、神と会衆(人々)の間に立って執り成しを祈ることです。そのような聖職者として私自身ももっと成長していかねばと思っています。教会(信徒)も外部の人々のために執り成しをしていく聖い務めを持っているということも、併せて覚えておきたいと思います。また、日々の生活も信仰生活も主の支え(執り成し)によっていることも心深く留めましょう。皆さんの上に主の執り成しが豊かにありますように。アーメン。


 

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