8月4日  聖霊降臨後第11主日(A年)

 

執事 サムエル 奥 晋一郎

イエスさまを覚えること(マタイ14:13−21)

 本日の福音書の箇所はイエスさまが、パン5つと魚2つを取り祈り、パンを裂き、弟子たちを通して、その場にいたすべての人たちに与えられ、食べて満腹したことが書かれています。このお話しは子どものころ、日曜学校の時に行われた紙芝居を通してよく聞かせてもらいました。小学生のころは5つのパンと2匹の魚だけで大勢の人々を満腹にさせるイエスさまはすごい方だと思っていました。しかし、中学、高校の年齢になるにしたがって、どうして5つのパンと2匹の魚だけで大勢の人々を満腹にさせることができるのか、と疑問持つようになってきました。
 今になって考えてみますと、この箇所について小学生の時と中学・高校の時の視点が違うことに気がつきました。小学生の時はイエスさまを中心に見ていましたが、中学・高校の時はパンと魚を中心に見ていたということに。さらに、イエスさまを中心にして読まずに、パンと魚を中心に見ているときは自己中心的な考えに陥ったときであることに。このことから、当然のことではありますが、この箇所はイエスさまを中心に見なければならないことを改めて思わされました。
 この箇所では14節までの前半部分ではイエスさまが群集を見て深く憐れまれたことが書かれています。そして、15節以下の後半部分ではイエスさまがパンを取り、賛美の祈りを唱え、裂いて、渡すことから聖餐式の伝承が書かれているといわれています。さらに、イエスさまは弟子たちにパンを群衆に配る役割を与えています。
 このことから、イエスさまがまず、わたしたち一人一人を憐れんでくださっていることを覚えることが大切であると思います。そして、その憐れみを具体的な形であらわすために十字架の道を歩まれたのでした。ですから、わたしたちは聖餐式において、聖別されたパンとぶどう酒、イエスさまの体と血に与るときにイエスさまの憐れみを覚えたいと思います。また、そのときに、また弟子たちが群集にパンを配ったように、私たちも他の人々に対して、御心にかなう行いができるように祈っていきたいと思います。そして、ことに苦しい時、悲しいときこそイエスさまが共にいてくださり、憐れんでくださっていることを覚え、感謝することができるように祈っていきたいと思います。

 


 

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