8月11日  聖霊降臨後第12主日(A年)

 

司祭 ヨシュア 文屋善明

可能(マタイ14:22-33)

1. 5千人の給食と水上歩行
 主イエスの水上歩行の奇跡物語は、マタイ、マルコ、ヨハネが伝えているが、いずれも5千人の給食物語とセットになっている。この物語についても5千人の給食物語同様昔から色々な解釈がなされてきた。そんなことは「あり得ない」というのが率直な気持ちである。出来事そのものは確かに「ありそうもない」。しかし、「ありそうもない」この出来事を「あったこと」として福音書は語る。何があったのだろうか。

2. 水上歩行の不可能性
 人間は水の上を歩くことは出来ない。不可能なことが出来たから「奇跡」である。この物語を語り伝えた人々も実際に水の上を歩いたことを見てもいないし、経験もしていない。しかし、これを「真実」として語った。彼らはこれを「真実」と思った。「本当のこと」と信じた。この信仰の背景にはこれに似た経験を彼らはしたからであろう。
 この物語で最も重要な点は、ペテロである。主イエスが水の上を歩かれたのは「神の子」だからということで「けり」はつく。しかし、ペテロも歩いた。この物語の痛快な点は「ペテロも歩いた」ということである。ペテロも歩けるなら「私も歩ける」。ペテロに可能ならばわたしたちにも可能である。問題は一挙に現実性を帯びてくる。ペテロは主イエスと同じように歩いた。あのペテロが歩いた。それならばわたしたちも主イエスと同じように歩ける。

3. 愛の問題
 主イエスは人々を愛された。これはいわば周知の事実である。主イエスは人々に互いに愛し合うように教えられた。教えられたというより「命じ」られた。ここに主イエスとわたしたちとの接点がある。主イエスの身近にあり、共に生活し、共に旅をした弟子たち、特にペテロはその点を最もよく知っていた。主イエスから「隣人を愛せよ」と命令されたとき、もちろんそうしようとした。そうできると思った。そんなに難しいこととは思わなかったに違いない。しかし、愛とはそんなに簡単なことではない。愛は究極においてその人のために「死ねるか」というところまで含まれている。主イエスが「友のために死ぬ」という、「同胞のために死ぬ」というところまで進んだとき、ペテロは逃げ出した。つまり、自分には「主イエスのようには愛せない」という告白である。
 キリスト教のつまずきは、わたしたちが「主イエスのように愛し、生きれる」と思っていることと、それは不可能であるということとの間にある。前者においては現実的な挫折がない。後者においては現実的な絶望のみが支配している。信仰は不可能を可能にする恵である。奇跡物語が「つまづき」なのではない。愛がつまづきなのである。キリスト者は「信仰」を語ることによって「愛の不可能」をあまりにも簡単に言い過ぎる。愛を信仰にすり替えている。
 この奇跡物語は「ペテロが主イエスのように歩けた」ということを語る。つまり、あのペテロが主イエスのように愛せた。もっと言うと、使徒ペテロは主イエスのように「死ねた」。不可能が可能になった。奇跡が起こった。キリスト教信仰はこの面をもっと語るべきであるし、それはわたしたちの現実的な課題でもある。


 


 

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