8月18日  聖霊降臨後第13主日(A年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

カナンの女の信仰に学ぶ【マタイ福音書15:21‐28】

 本日の福音書にある「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とは異邦人であるカナンの女の求めに対して冷たく応じられるイエスの姿をあらわしているかのようです。異邦人に対する軽蔑ではないか? あなたたちは人間以下であり神ですら関心をもたれない存在を意味する言葉に受け取れます。なぜ、このような言い方をイエスがされたのでしょうか。当時のユダヤ社会で生き抜いていくために、あえて排他的な考えを表すことでうまく立ち振る舞おうとでもされたのか?と勘ぐりたくもなります。また、一方で異邦人であっても神さまの恵みに与ることができるはずだ、ということをイエスに説得し、納得させたこのカナンの女の大胆さ。
 それぞれに解釈なり、推測できるのでしょうが、人々との出会い、とりわけ異邦人との関わりに苦心されるイエスの自己理解を示すものといわれています。
 しかし、イエスの基本姿勢は「失われた羊を養うため」であるのです。突き放しつつも、聞いておられる。わざを示すことよりも「思いを聞く」ことにウエイトが置かれています。また、本当の癒しのちからは自分のなかにあるとの「カウンセリング・マインド」すら感じとることができます。
 この福音書からどんな希望をもつことができるのでしょうか。わたしたちは、イエスのなかに完全なものを見ようとしたり、彼女のイエスに対する媚びた姿勢だと思われたりしてはいまいか。しかし、聖書は彼女の謙遜さを大切にします。自らの置かれている現実を認めつつも、決してそのままの状態に満足するのではありません。「謙遜さ」と「大胆さ」のバランス感覚。そして粘り強さのそれぞれが、まわりの状況を良い方向へ導かれていく。近年祈祷書の改正により聖餐式の「近づきの祈り」(祈祷書181頁)は個人ざんげ的な比重が強いとの理由でルブリックでは「用いてもよい」という表現になってはいるが、祈りにもなっているカナンの女の姿勢はわたしたちの渇きであり、希望であることに変わりはない。
 わたしたちの信仰生活をふりかえる中でイエスに試され、また応えていくことが務めであり、その導きを信じることができる謙虚なこころを持ちたい。

 


 

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