9月15日  聖霊降臨後第17主日(A年)

 

司祭 ヨシヤ 立川 裕

テキスト:聖マタイによる福音書 第18章21節〜35節

◇「七の七十倍までも(無制限に)赦しなさい」
 聖ペテロは、主イエスのところに来て尋ねました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」すると、主イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」

◇それは出来ることなのでしょうか?
 何でもかんでも「ゆるしなさい」と言うのが、主イエスの教えなのでしょうか? また、主なる神は何でも「ゆるされる」のでしょうか? 誰でもが「ゆるされない」ような過ちを犯し、それを自覚し、主なる神の前で起立することもできない罪人かも知れません。そして、そのような私たちは、お互いに「ゆるし」合うことが出来るのでしょうか?

◇「私はゆるさない」「ゆるせない」
 逆に、自分に対する誰かの仕打ちには立腹し、「絶対ゆるさない」と腹の奥に抱え込んでいないでしょうか? そしてまた、身近なところから、世の中の出来事に至るまで、こんなことを神さまが「ゆるす」わけがないと思われることに満ちあふれています。何でもかんでも「ゆるす」神に対してまでも「私はゆるさない。ゆるせない!」と思わず言ってしまいます。

◇子供の喧嘩
 子供たちの遊んでいる様子を見ていると、直に喧嘩を始めます。遊びにはだいたいルールがあるのですが、喧嘩の原因はどうやらそのルールを守れない子がいるからのようです。ルール破りに対して我慢が出来なくなり、ついに喧嘩になり、お互いに手が出る、足が出る、汚い言葉が行き交い、泣き別れ。けれども、しばらくすると仲良く遊びを再開していたり・・・。喧嘩をするのも仲が良いからなのかと、微笑ましく思ってしまう。

◇「断絶」で終わる「最悪」
 主イエスは、「ゆるさない」という関係から生じる一番悲しい出来事は、お互いの交わりが損なわれることだ、と言いたいのだと思う。「ゆるさない」まま「ゆるされない」まま「断絶」で終わることは「最悪」で、それを最も悲しまれるのだろう。子供たちのように仲良しという言い方だけでは、もちろん言い足りないが、同じ主イエスをキリストと告白している者同志が、「ゆるせないぞ!」と声をあげられるほど、仲良く喧嘩できるほど深い交わりがあるように思えます。

◇豊かな関係を生み出す「ゆるし」
 「ゆるさない」という心を持つな!というのではなく、「ゆるさない」という心があってこそ豊かな関係を生み出す「ゆるし」が生じるのではないでしょうか。「ゆるさない」という出来事が七の七十倍(無制限に)あるからこそ、七の七十倍(無制限に)「ゆるしなさい」という主イエスのみ言葉が私たちの心に刻まれます。 



 

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