9月22日  聖霊降臨後第18主日(A年)

 

執事 マーク シュタール

 今日のテーマは、消極的ということです。人は、消極的、その気がないと、神様が私たちに見てほしいと望んでおられることを見ることができません。
 ヨナ書では、ヨナがニネベの人々を救うために、行って説教をしなさいと命じられたのに、逃げ出し船に乗り込んだのです。そこで神様は嵐を起こし、船乗りたちは海を静めるために、ヨナを海にほうり込みました。するとヨナは大きな魚に飲み込まれました。ヨナが許しを請うと、魚はヨナを吐き出しました。
 神様は再びヨナにニネベに行くよう命じ、ヨナは依然しぶしぶながら行くと、意外にも大成功を収めました。ニネベの町は悔い改め、神様はニネベを救われました。
 今日の箇所は最後の場面で、ヨナは神様がニネベの人々を滅ぼされなかったことに大いに不満を持ち、ふてくされ、死をも望みました。ここで話は突然終わり、私たちに熟考を促しています。私たちの周りにもいないでしょうか。いいことをしたときでさえ不満げな人が。
 フィリピの信徒への手紙では、パウロは死んでキリストと共にいるか、肉として留まり福音を宣べ伝えるか迷って、決断を下すことを渋っています。自分を捨て、人々のことを思うなら、より困難な後者を選ぶべきであるとパウロは知っています。自分の利益を捨て、隣人のために生きること、困難を背負うことは、十字架同様、神様に与えられた大切なことです。そうすることで、自分の消極性、乗り気のなさは、勝利を掲げる十字架になるのです。しかしそれは、「私にとって、生きるとはキリストである」ということの意味が本当に理解できた時に初めて実現することです。
 マタイによる福音書の中のブドウ園の労働者のたとえ話は、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という御言葉の意味を教えています、ここに、公平さを見出すことに私たちは乗り気ではありません。他人が働いた以上に厚遇されているのに、自分は不十分な報酬しかもらえないという風に写ります。
 この話は労働者の話のようですが、ブドウ園の主人の話です。旧約聖書では、よく神様とイスラエルの関係になぞらえられます。ブドウ園の主人の判断が焦点になっていますが、どのように労働者に報酬を与えるかということについて、全くの権限をもっています。
 つまり、ブドウ園で働くことは、恵みであり、御国に入ることを意味します。それを受け入れるか、拒否するかは、自分自身の判断です。その恵みを早く受け入れたか、遅く受け入れたかは、関係ないのです。ブドウ園でより長く働くことができること自体、恵みなのです。このたとえ話は、すべての人がブドウ園、つまり御国に招かれていることを示しています。
 わたしたち自身が消極的であると、神様がわたしたちに見て欲しいこと、して欲しいことに気づくことが出来ません。ヨナは、神様の慈愛がいかに大きいかということを見ることが出来ず、怒りを持ち続けました。また、わたしたちは、自分の苦難がよりキリストにつながるもの、神様の御意志であることに思いを巡らせることに消極的です。最後に、今日のたとえ話のように、消極的であること、渋々従うということは、神様の慈しみは全ての人のものであり、勤勉の対価ではなく、無償のものであることに気づくことを難しくします。



 

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