10月6日  聖霊降臨後第20主日(A年)

 

執事 エレミヤ 上松 興

世界は神様のもの(マタイ21:33-43)

 福音書は3週連続してぶどう園の譬えを語られており、今回は最後のぶどう園の物語です。ぶどう園は神が支配される国といってよいでしょう。このぶどう園の物語は主イエスがユダヤ教の指導者、ファリサイ派達との緊迫した対決の場で語られました。それゆえに主イエスは彼らを厳しく糾弾されています。どんなに福音を語ってもかたくなに受け入れない心、悔い改めないユダヤ人達の信仰を問題にされたのでした。
  「ぶどう園と農夫」の譬えには今までのユダヤ人達がかたくなさのゆえに神の言葉を受け入れてこなかった歴史とこれから受けられようとしている主イエスの受難を暗示する内容が語られています。
 ある家の主人が旅にでかけました。ぶどう園を農夫たちに貸して、その管理を信頼して委ねたのです。この農夫たちは当時のユダヤ人、ことに譬え話が語られた相手であるユダヤ教の指導者たちです。この人々に委ねられたイスラエルの信仰の歴史はぶどう園のその後の農夫たちの行動に描かれております。そしていま実際に語っているご自分をも抹殺してしまうことにも言及し、ついには彼らに対して神の審判が下り、新しい民にぶどう園は受け継がれていくことを示唆しています。まさにこの語りは主イエスの命をかけたものなのです。
 この譬えは決してファリサイ派たちに語られたばかりではなく、現代に生きる私たちにも鋭い警告を発しています。ぶどう園の農夫たちはぶどう園が神の所有であることを忘れ、いつしか自分たちの所有にしようとしました。神に代わって人間が神の国を支配しようとしたところから争いが生まれ、ついには神の存在すら抹殺してしまう野望が生まれます。私たちが生きている世界は神様からお借りしている世界であり、人間がこの世界を神様から信託されていることを忘れてはなりません。本当の所有者は神様であって、私たち人間ではないということを自覚するときに、神様への誠実、責任が生まれてくるのです。
 現代の社会はいろいろな問題を囲え込んで苦しんで、悩んでいます。人間が作ってきた文化がまさに頂点に達したと思われる時代にあって、不安、悩みは深まる一方です。その悩みの深淵を覗くとき、この世界の所有者はあたかも人間であるように思い込み、力の過信と思い上がりが神様への感謝を忘れ、真の平和が神様から与えられないところに原因があるのではないでしょうか。
 私たちの教会においても同じことがいえます。教会は神様の家で神様の所有であることを忘れて、どこかで主人になりたがることにみ言葉は警告しています。ファリサイ派たちがそうであったように、かたくなな心、受け入れる心を失ったときに争いが生まれます。教会が神様に仕え、この世界に仕えていくとき、キリストは共にいて、私たちの間に立たれるのです。


 

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