10月20日  聖霊降臨後第22主日(A年)

 

司祭 ヨシュア 柳原義之

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)

 このテキストに先立って「権威についての問答」の中で、イエス様は祭司長、民の長老たちをへこませている。その人々はどちらに答えても自分が不利になることが分かっていたから、「分からない。」(マタイ21:27)と答えた。祭司長、長老としてのプライド、群集からの非難の目、これらが自己保身に走らせたと思える。
 この主日のテキストはその流れの中にあるものだろう。今度はイエス様に同様の手口で聞いてみた。そして、彼らの頭の中には自分たちと同じように考え、似たような答えが返ってくるだろう、そしてそれによってイエスも恥をかくに違いないと思っていたに違いない。いやそれ以上に、「律法に適っている」と言えば、しめしめ律法に対する背きとして、そして「適っていない」と言えば皇帝に対する反逆罪として「罠」にはまると思っていたのだろう。
 私たちは日々の生活の中で、このようなことを実にたくさんしているように思う。人や社会的立場や、自分のプライドから物事を見つめすぎて、「神の視点」というものを忘れてしまう。その方が自分の「今」を生き易いためだ。
 しかし、イエス様は、肖像と銘が皇帝のものならば皇帝に返せと言われた。何が何でも神のものと言わずにさらりと受け流された。でも同時に「神のものなら神に返せ」と言われる。答えはあなたの中にあるのだ、と私たちにその答えをつき返された。
 「これは神のものだ」と言ってその交わりの中で生きにくくなっている人もあるだろう。逆に全部に流されている人もあるかもしれない。また、祭司長たちのように答えを留保して、「分からない」と言って逃げている時もあるだろう。そんな私たちの姿に対して、イエス様の答えのまっすぐさとしなやかさはどうだろうか。
 ファリサイ派の人々はその場から立ち去りました。私はどうするだろうか?あなたならどうする?

 


 

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