10月27日  聖霊降臨後第23主日(A年)

 


司祭 ミカエル 藤原健久

仲間として

 幕末の頃、坂本竜馬が西郷隆盛を「釣鐘のような男」と評したそうである。その心は「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」。西郷の人間性の大きさ、様々な状況に的確に対応する行動力を高く評価したのだろう。イエス様もそのような方かもしれない。本日の福音書の物語に至るまで、ファリサイ派初めユダヤの社会の指導者たちは、イエスに論議を吹っかけ、何とかしてイエスを陥れようとしていた。しかしイエス様は彼らの論議を上回る論理と熱い思いをもって、ことごとく彼らを論破した。ファリサイ派の人々もさすがに負けを認めてきたようである。もう、言葉の罠を仕掛ける元気もなく、多分、幾分かしょげ返ってイエス様に尋ねる。「一番大切な律法は何ですか。」これは正直な思いで行なった質問だろう。イエス様はそのような質問には誠実に答えられる。"全てをもって神と隣人を愛するんだ!"イエス様の答えは簡潔で力強い。この単純な律法は誰もが理解でき、誰もがすぐに実行できる。老若男女、職業や立場の違い、そのなかで、それぞれが、それぞれのできるやり方で、神と人とを愛すればいいのである。人には様々な違いがある。ファリサイ派や他の指導者たちは、その違いを人々の優劣の違いにしようとした。律法の行いにおいて優れていると自負している人は、そうでない人を「汚れた者」と呼んだ。しかし、イエスが明らかにした律法の根本精神は、愛の行ないにおいて人々を平等にする。「ダビデの子」についても同様である。メシアは何か特別の血筋から出るのではない。ダビデもメシアを「主」と呼んだ。メシアにおいて、メシアを待ち望み、祈ることにおいて、私たちは、偉大な王ダビデを含めて、平等になるのである。
 神の前に平等、この精神は、旧約聖書の具体的な律法にも反映されている。律法には「弱い者を虐待するな」とある。その理由は自分たちもかつては貧しい者であったことを思い起こし、またいつ何時、同じ立場になるかもしれないから、である。この律法は単に"弱者救済"ではない。弱者を自分たちの仲間と認め、仲間として助け合うことを教えるのである。「仲間」の範囲は限られない。初めに「寄留者」が出てくるように、仲間の範囲は国境を超え、民族を超え、全人類に及ぶのである。神の憐れみの具現であるメシアも、きっと仲間の一人として苦しむ者の隣におられる。
 北朝鮮の拉致事件に際して、「社会共同体の一員として、彼らの不在を、なぜもっと強く思わなかったのだろう」と語った人がいるそうだ。また、教会の信徒で、自由祈祷の時、遠い外国で戦争の渦中にある人々や災害にあった人々を、「兄弟姉妹」と呼んで熱い祈りを捧げておられた人がおられた。全てを創られ、全てを生かし、愛し、慈しんでおられる神を信じる者には、全ての人が、すべてのものが仲間になる。「仲間」とは「気の合う仲良し」を意味しない。その関わりに責任を持つ者、持とうとする者のことである。関係が上手くいく時、いかない時、楽しい時、苦しい時、様々な局面がある。しかし多分、この地上に私が無責任でいられる人はいないはずだ。仲間として歩みたい。

 

 


 

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