11月3日  聖霊降臨後第24主日(A年)



司祭 ペテロ 浜屋憲夫

【福音書 マタイによる福音書 23章 1〜12節】

 私は、大学で仏教学を専攻したこともあって自分がキリスト教に入信し、また牧師となってからもずっと仏教に関心を持ち続けています。随分前のことになりますが、仏教の「念仏」というものにとても私の関心が高まり、いろんな本を読んだのですが、どうしても実際の念仏修行というものを体験してみたくなったことがありました。たまたま知り合ったお坊さんに頼んでお寺で行われている本物の念仏修行を体験できることになりました。それは、浄土宗のお寺で行われる「別時念仏」という修行で、数日間の期間を定めて、朝から晩までずっと木魚を叩きながら、お坊さんと檀家の信者さんたちが一緒に「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と念仏を唱え続けるのです。私は、その数日の内一日だけ、それも朝から夕方まで参加しただけなのですが、本当はその数日間というもの寝る間も惜しんで、ぶっ通しで念仏を唱え続けるのです。私は、そのような修行のほんの一端に触れただけなのですが、とても有意義な体験でした。
 その体験の意義については、いつか別のところで書きたいと思っていますが、ここではその時私が体験した小さな出来事から、今日の福音書について考えさせられたことを書きたいと思います。その出来事というのは、念仏修行の間に取られる休憩時間で見た光景のことです。お念仏修行は、お寺の本堂でおこなわれるのですが、食事の時とその後少しの時間は休憩になります。この「別時念仏」は大きな行事で、そのお寺だけではなく幾つかのお寺が合同しておこなっていたようで、数人のお坊さんと数十人の信者さんが参加していました。私は、もちろん紹介してくれたお坊さん以外誰も知りませんから、話し相手もなく、聞くとも無くその人達の休憩の間のおしゃべりを聞いていたのですが、信者さんがお坊さんを呼ぶ時に、「お上人、お上人」と呼びかけ、お坊さん同士も互いに、「お上人、お上人」と呼び合っているのです。私の耳には、これがとても異様に聞こえたのです。とても強い印象を受けました。私の日本語感覚では、「上人」という言葉は昔の言葉であって現代に使われる言葉ではありませんでしたし、また「上人」というのは、法然上人とか親鸞上人のような本当に偉いお坊さんにだけ使われる尊称だと私はそれまで思っていたからです。それが、田舎の村のお寺の普通のお坊さんに呼びかける時に使われていたのが私には、実に異様に思われたのです。(私には普通のお坊さんのように見えたのですが、もしかしたら、とても位の高いお坊さんだったのかもしれません)何とオーバーな呼び方だろうと思いました。何と権威主義なのだとも思いました。私にこの修行を体験する機会を与えてくださったお坊さんはとても良い方で、いまでも年賀状を交換しているのですが、この「お上人」という呼び方はいただけないなと思ったのでした。しかし、そう思った瞬間に私は自分自身も同じじゃないかと思わざるを得ませんでした。小さな教会の中で、「先生」と呼ばれ、また「先生」と呼び合い、「司祭」、「牧師」という肩書きをつけているのを外部の人が見たら、私がこのお坊さんたちに感じたことと同じ異様さを感じるに違いありません。教会の中にずっぽり入ってしまうと、自分自身の異様さ、また空疎な権威主義に、何時の間にか鈍感になってしまっているのです。とても反省したことでした。
 本日の福音書は、本当に厳しいイエスさまの言葉です。何の説明も解釈も不要です。ことに、実際の教会で、先生と呼ばれ、人の前に立ち、祭服をつけて礼拝を行い、説教をしている人達にとっては、(勿論、私自身もその一人ですが)ほとんど言葉を失ってしまうくらい鋭い、怖い言葉です。しかし、その鋭さ、怖さこそがこの言葉の命です。私たちが、この鋭い、怖い言葉を新約聖書に持っていることに感謝したいと思います。

 


 

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