11月24日  降臨節前主日(A年)



司祭 セオドラ 池本則子

小さい者への愛=イエスへの愛

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25:40)

 私たちが愛の業を行う時、どのような気持ちで行うのでしょうか。飢えている人、のどが渇いている人、宿のない旅人、裸の人、病気の人、牢にいる人を見たとき、あなたはどうするでしょうか。もし、あなたが飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、宿のない旅人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねたとします。あなたはこれらの行いをなぜしたのでしょうか。かわいそうだと思ったからなのでしょうか。喜んでもらいたいからなのでしょうか。感謝してもらいたいから、あるいは、そのお礼にその人たちから何らかの見返りを期待したからなのでしょうか。それとも、お互いに助け合って生きくことが大切であると思ったから、あるいは、その人のつらさに共感したからなのでしょうか。
 イエス様は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われます。飢えていた者に食べさせ、のどが渇いていた者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の人に着る物を与え、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねたのなら、それは「わたしにしてくれたことだ」と言われます。イエス様はすべての人と共におられますが、ことに苦しんでいる者、悲しんでいる者、貧しい者、差別されている者、抑圧されている者、迫害されている者、病んでいる者、など痛み・重荷を負っている者と共におられます。なぜなら、イエス様は人間の苦しみを負うためにこの世に降られた方だからです。イエス様はこの世で、身をもって神の愛の業に生き、人々に模範としてそれを示されました。その愛の業は、かわいそうだという同情心からでも、感謝やお礼を期待するからでもなく、等しく神さまから愛された尊い人格を持った人間に対する当然の業であったのです。しかし、これらの小さき者へのこのような愛の行為は、十字架という最も悲惨な形での結果となりました。ところが、その十字架があったからこそ、それは復活の命となり、人間の苦しみが開放されることになったのです。 
 ところで、今の世界の現状はどうでしょうか。人々の心から重荷が取り除かれ、苦しみから開放され、イエス様の愛の業で満ちた世界になっているでしょうか。残念ながら、それとはほど遠い世界にあります。イエス様は一回限りの出来事としてその身を十字架に献げられ、人類に永遠の命を与えられました。それにもかかわらず、今この世界の一部の人たちによって、どれだけ多くの人たちのイエス様の大切な命が失われ、苦しみに追いやられ、死の危険にさらされているでしょうか。イエス様の命と共にあるすべての人々、その一人一人の生命が尊ばれなければ、神さまの望まれる世界ではありません。私たちはもう二度とイエス様を十字架につけてはいけないのです。
 教会暦最後の降臨節前主日、「キリストの王なる主日」とも呼ばれているこの日曜日には、『この世の人々が、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、開放され、また、ともに集められますように』と祈ります。痛みを負った最も小さい者と共に歩まれ、共に十字架を負ってくださっているイエス様。そのイエス様が王として支配される神の世界に私たちもともに集められ、イエス様のすべての命を大切にする愛にあふれた世界になって欲しいものです。


 

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