12月1日  降臨節第1主日(B年)


司祭 ヨハネ 石塚秀司

「約束を信じて待ち望む」


 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコによる福音書 13:33)

 きょうから教会の暦は降臨節に入ります。降臨節はアドベントとも言いますが、これはラテン語で「来臨」を意味する言葉で、まことの救い主が来てくださることを待ち望み、心の準備をしていく時を意味しています。
 マルコによる福音書13章33節以下には「目を覚ましていなさい」という言葉が繰り返し何度も出てきます。主がいつ来られるのか、私たち人間には分からないから、いつも「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言われます。
 クリスマスに関する聖書の箇所を読んでいて、ふと頭に浮かんでくることがあります。それは、ベツレヘムという小さな町で、それまでごく普通の平凡な生活をしていたに違いないヨセフとマリアの間にお生まれになったイエスという幼子の誕生が、どうして、救い主の誕生、到来というとてつもない出来事ととして受け止められていったのかということです。
 主イエスがお生まれになる以前から、旧約聖書に記されているメシア、救い主が与えられるという約束を心から信じ真剣に待ち望んでいた人たちがいました。毎日繰り返される現実の生活にしか心を留めようとしない多くの人々の中で、み言葉に耳を傾け、神様の約束を信じ、そこに希望を託し、その成就を待ち望んでいる少数の人たちがいたのです。無関心な人たちにとっては日常的なごくありふれた出来事に過ぎないものの中に、彼らは神様のみ業、神様の出来事を見つめ感じ取っていきました。
 ところで、私たちの住むこの社会では、今、心が痛みまたある種の危機感を抱かざるを得ないような事件が頻発しています。特に子どもが大人の身勝手さの犠牲になるという事件が増えてきています。私どもの教会の関連施設である養護施設の施設長さんは「最近は、施設に入ってくる子どもたちに、親の虐待を受け保護された子が次第に多くなってきている」と言っていました。社会の混乱のしわ寄せは、結局一番弱いところ、子どもたちに押し寄せてくるものです。一体私たちの住む社会は今どこに向かっているのでしょうか。本当に幸せな未来に向かっているのか。それとも闇へと向かっているのでしょうか。信じることが失われた社会、何を本当に信じて良いのか分からない。人を信じられない。また信じて待ち望むことができなくなった社会。今の自分の願望や感情を満たすことに偏りすぎた社会。それがもたらす闇の力が徐々に徐々に大きくなってきているように思えてなりません。
 11月に私どもの教会では子ども祝福式を行い、子どもたちと一緒に聖餐式をささげ、皆で子どもたちのために祈りました。祝福のところで、私は一人一人の頭に手をおいて「この子の上に、主のお守りとお導きが豊かにありますように。アーメン」と祈りました。この祈りには、その子がどんな状況に遭遇しようとも、また立たされようとも、何が本当に正しいことなのか、真実なのか、見えないものに常に心の目が開かれていて欲しい。闇の力にではなく光に導かれていく人生であるように、主が守り導いていって欲しいという思いを込めています。そしてこのことは、子どもを育てる大人にとってもなくてはならないことだと思います。
 福音記者ヨハネは、イエス・キリストの来臨について「光は暗闇の中で輝いている。・・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」という表現で語っています。この世の暗闇の中にあって、闇の力によっては決して打ち消されず、いやむしろ深い闇の中でこそ輝くまことの光を見つめることのできる信仰の目をもってクリスマスを迎えましょう。このまことの光は今もすべての人を照らし、約束を信じ待ち望む人に神様のみ心に生きる命、聖霊の恵みを与えてくださいます。だから「目を覚ましていなさい」!

 

 

 


 

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