12月15日  降臨節第3主日(B年)


司祭 パウロ 北山和民

「あなたがたの知らない方がおられる」…再臨について

 降臨節も第3主日となり、わたしたちは「主の来られるのを待ち望む」礼拝を続けています。聖書を紡いでいった時代の人々のキリスト待望、すなわち悪の存在を前提とした再臨待望、その真剣さを想像すると、振り返って私たちは再臨など容易に忘れたり、またカルト集団に利用されたり、つまり「悪が分からない、闇が怖くない」無責任な礼拝ができる、とても変わった時代にいることに気づかされます。これはかえって人間自体がよりしっかり注意深く典礼を守り聖書を聞かねばならない時代、危機の時代なのかも知れません。
 「主が来られる」とは現代人にどのような意味を持つのでしょうか。
 旧約聖書から聞く「神が来られる」時とは「裁き」のときでした。「終わりのとき・裁きのとき」なんて、たとえ無罪判決であっても震え上がるものです。しかしそのイメージこそが最も嘆き悲しむ者(黙示録の時代には殉教者)たちを慰める力となりました。
 そして同時に、人間が「現実」と呼ぶ枠組みが物事をすべて支配しているわけではないことを教えたのです。つまり「神が来る・終わりがある」とは己の力、目に見える経済や政治の力、そして死の力にさえも勝利する力が「現実に」在ると教え、これは実際生きる態度に影響することなのです。 例えば商売や事業を行っていても必ず「終わり」があって、いわゆる決算をしなければなりません。 アメリカの巨大企業の不正経理、日本の大銀行の不良債権処理遅れ、つまり、これらは神の裁きの時があることを信じず、恐れていないから、不正な決算や無責任経営が行われたと(宗教的に)言えるのです。経理の透明さ、経営者のリーダーシップと責任といった経済倫理の問題は優れて宗教的なものだと私は思っています。そして、教会が「再臨」を容易に忘れるようになったことと、組織の倫理が廃れ無責任なリーダー(それを放置する無責任なメンバー)が増えたこととはつながっているのではないかと考えます。 「再臨」とは私たち現代人にとっての「責任」に関係すること、つまり私的な信念や欲望を一切入り込ませない公的責任態度があるかどうかの課題と言ってもよいと思います。
 今主日の旧約聖書、イザヤ書65章17節は「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それは誰の心にも上ることはない」とあります。また、ヨハネ福音書1章26節には、明らかにイエスのことを「あなたがたの知らないかた」と記しています。これらは、わたしたちが納得したからクリスマスガ来るのではないことに気づかせてくれます。生き方を変えるほどのビジョンも出会いも、いわゆる自力では得られないことを表しています。逆にそんなビジョンや出会いを先取りした人がここに到来したなら、私たちは信念や知恵で頑張らなくても、ただ「喜び楽しみ、踊れ(イザヤ65:18)」ば良いのです。 礼拝ががまさに到来(再臨)の先取りをしてくれるのです。


 

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