12月22日  降臨節第4主日(B年)


司祭 バルナバ 小林 聡

今が恵の時【ルカによる福音書1:26−38】

 南アフリカを旅していたとき、ヨハネスバーグという町のある聖公会の教会で聖書に聞き分かち合う機会を与えられました。一緒にいた方々の中にルワンダ出身の司祭もおられました。ルワンダはひどい内戦のため多くの人びとが傷つき、家を追われ、命を落としたと、その司祭は語っておられました。司祭の名前はベンワさんと言います。たまたまニュージーランドに行かれる途上、宿が私と同じになったのです。
 ベンワ司祭は、あかちゃんが与えられることは神の恵みだと言われました。そして神の恵みは赤ちゃんが与えられることによってあらわされるとも言われました。このような考え方は世界中に見られますし、特にアフリカではよく聞く話でした。そこで私に一つの疑問が生まれました。赤ちゃんのいないカップルや一人で生きている人々には神の恵みはないのだろうかと。
 マリアにとって赤ちゃんが生まれると言うことを天使ガブリエルに告げられた時、むしろ、マリアは驚きと恐れの感情を持たざるをえませんでした。それはマリアが意図していた仕方で赤ちゃんが与えられるというものではなかったからです。マリアはヨセフと婚約中であったし、まだ夫婦となっていたわけではありませんでした。しかも与えられる赤ちゃんはヨセフとの間に授けられる赤ちゃんではないからです。マリアに与えられたメッセージは手放しの喜びを招く福音ではなく、むしろこれから起こる想像をこえた出来事を受け入れていく天使ガブリエルからの励ましの言葉だったのです。「聖霊があなたにのぞみ、『崇高な方』の力があなたをおおうのだ。」(35節)。神様はマリアと共におられます。今までも、そして今も、これからも。神の恵みはマリアの側になんの条件も必要としませんでした。「神の側からは、どんなことも、できないことはないのだ。」(37節)。神の恵みはマリアを生活の中で、また私たちの生活の中であらわされます。そしてその恵からもれるものは誰一人としていません。恵に条件はいらないと聖書は語っています。
 この世的にマイナスイメージを背負わされたマリアの出産をめぐる境遇の中に、神の恵みが豊に満ち溢れていることをおぼえたいと思います。今この瞬間、マリアと共に私たち一人一人も神様に祝福され恵を受けているのです。この福音は来るべき救い主の誕生の喜びを先取りするものでありながら、その時を迎える備えともなるのです。

■聖書は本田哲郎訳を用いました。



 

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