2003年1月19日  顕現後第2主日(B年)



司祭 ヨハネ 黒田 裕

おでんの「謎」と信仰

 例年のことだが、年を越すと冬もさらに本番となり、2月には厳寒もピークを迎える。とにかく寒い。おでんの旨い季節である。ほうぼうの家庭で美味しそうな湯気が鍋から立ちのぼっていることであろう。この時期のおでんは格別なものだが、意外と家庭で美味しいおでんを作るのは難しい。
 私が独身時代のことである。ある寒い夜のこと、机仕事の傍ら石油ストーブの上に鍋をのせ、おでんを作っていた。さいしょに昆布、さらにスジ肉を煮込んでだしを取り、醤油で味付けをし、大根などの具を入れ、さらに煮込む。仕事の間も、鍋はぐつぐつと耳に心地良い音を立てている―。
 数時間後、仕事も片がつき、いよいよ待望のおでんである。鍋の蓋を開けると、美味しそうに煮えている。期待に胸をふくらませながら、食べ始める。が、しかしである。全然美味しくない! 長時間煮た割にスジ肉は柔らかくなっていないし、大根は確かに柔らかいが、芯まで味が沁みこんではいない。断面を見ると中の方は相変わらず白いままである。
 こうなると、楽しみにしていたおでんも台無しである。期待しながらのこの数時間は一体何だったのか? もっと長く煮込まねばならなかったのだろうか? 他のご家庭ではどうやって上手く作っているのだろうか? プロは大きい鍋で作るから美味しいと言われているが、美味しさと鍋の大きさとは一体どう関係しているのか…矢継ぎ早に数々の疑問が頭を駆け巡る。が、答えは出ないまま。その日以来、おでんの「謎」は、心のどこかでひっかかりながら私のなかであり続けた。
 ところが、それから数年後のことである。たまたまつけたテレビで「おいしいおでんの秘密」という特集をある局で放送していた。いよいよ積年の(?)謎が解ける時とばかりに番組に集中する。そしてついに「謎」が解ける時が到来した。
 実は、秘密は、煮込み時間の長さにではなく、「冷めていく」プロセスにあった。結論を先に言えば「冷めていく」時間がゆっくりであるほどに美味しいおでんが出来上がるというのである。というのも、だし汁の味が具に沁みこんでいくのは、煮込んでいるときではなく冷めていくときだからである。そこで、あまり早く冷めると芯に到達する前に沁みこみが途中で止まってしまう。これが、あの、大根の中は白いまま、という現象なのであった。これで、さらに大鍋でなぜ巧くできるかも説明できる。要するに、大鍋は家庭用の小さい鍋に比べ冷めていく速度がずっと遅い。そこに鍋の大きさとおでんの美味しさとの関係があったのである。
 というわけで、家庭においても冷める速度を遅くしてやれば良い。最近では鍋そのものが保温ポットのようになっているものがありこれは便利である。しかし、一般に多く用いられているアルマイトの鍋でも、2、30分煮込んだ後に火を停め、鍋を新聞紙および毛布などで巻けば同じ効果が得られるという。
 こうして「謎」は解けることとなった。その後につくったおでんが上手く(旨く)できたのは言うまでもない。
 ところで、このおでんの話、どこか信仰のありようについても言えるような気がする。私たちのなかには、鍋にたとえればぐらぐらと煮え立つような熱い信仰に対して心のどこかでいつも引け目を感じる気持ちがないであろうか。または、かつてあった福音との出会いによる感動と熱心さを、今は同じようには持てていない、そのことへの負い目がないであろうか。あるいは、信仰とはいつも沸騰しているべきではないのか、"強火"でないといけないのではないか、という強迫めいた観念がないであろうか。
 私たちは今、こうした「熱心でなければならない」という観念から一度は自由になってみたい。「冷める」とは、普通は信仰にとって決定的にマイナスなイメージであると考えられている。しかし、必ずしもそうとは言えないのではないか。「冷めて」いく―それを徐々に「醒めて」いくプロセスと考えたいのである。そのプロセスのなかで、初めの熱心さとは違う、別の「何か」が進行していくのである。それは、ちょうど、徐々に「冷めて」いくプロセスによって、だしが大根の中心部に向かって沁みこんでいくように、信仰の味わいともいうべきものがその人の人格の中心へと向かって深まっていく、そのような信仰である。

 

 

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