2003年2月2日  被献日・顕現後第4主日(B年)



司祭 ヨシュア 文屋善明

育 【Tコリント8:1b-13】

 1節に「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」という言葉が出てくる。この言葉は、知識というものの空しさ、あるいは知識人に対する言葉のように見える。しかし、この言葉の前に「ただ」という言葉が付加されることによって、その批判は知識人一般に対するものというよりも、むしろ教会人に対する批判であることに注目すべきである。
 この「ただ」の直前で述べられていることは、「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。」(1節)」つまり、偶像に供えられた肉を食べてもよいのか、どうか、さらにいうと偶像というものをわたしたちはどう考えるのか、もっと現代的に言うとわたしたちは他宗教との関係をどう考えるのかというような問題について、わたしたちキリスト者はすでに明確な知識を持っている。と、使徒パウロは言う。
 現代とは違って、「この知識」は非常な力であった、と想像される。衣食住をはじめ、生活のあらゆる面で人びとは「神々」に縛られていた。文字どおり、それは呪縛である。現在でも世界の多くの人びとは「神々の呪縛」のもとで生活している。むしろ、この呪縛から解放されている人口の方が少ないと思われる。この種の「解放」のことを「世俗化」という。そういう意味では、キリスト教は世界の世俗化に貢献してきた、という言い方もできる。人びとが最も恐れている「神々」を一刀両断、「そんなものはいない」と断言してしまうのであるから、大変な力である。
 ところで、使徒パウロのこの言葉を読んで思うことは、はたしてわたしたちにこの様にわたしたち自身が高慢になるような知識を持っているのか、ということである。高慢になることを願うわけではないが、「高慢にならないように」と説教されるほどの知識も持ち合わせていないのではないか。言い換えると、この世の人たちを圧倒するような力を発揮するような「知識」をわたしたちは持っていないのではないか。そこに、現代のキリスト教の弱体化の根本的な原因があるように思う。もっと具体的に言うと、現代人に対する「メッセージ」がない。
 さて、使徒パウロは、キリスト者はこういう「知識」を持っているのであるが、その威力を振りかざしてはいけない。むしろ、その「知識」を内に隠して、この知識を持たない人々と同じ地平線に立って、生きよと語る。偶像に供えた肉といっても、そもそも偶像というものが存在しないのであるから、ただ単なる普通の肉と全く同じものである。わたしたちはそんなことを知っている。だから平気で食べることができる。しかし、その肉がある種の「呪い」を受けているという理由で食べることができない人がいるならば、わたしがその兄弟を「つまずかせないために」、あえて食べない、という。それがここで言う使徒パウロの「愛」「造り上げる愛」である。食べる自由を持つ者は食べない自由をも持っている。
 ここでは一見、知識と愛とが対比されている。知識と愛とは対立するものなのだろうか。よく読んでみると、ここで否定されているのは、単なる知識ではない。「愛の無い知識」である。裏返して言うと、ここで強調されている態度は、「知識に裏打ちされた愛」である。愛の無い知識は人を滅ぼし、知識に裏打ちされた愛は「造り上げる」、というのがここでのメッセージである。
 それでは、一体何を造り上げるのだろうか。10節の言葉は重要である。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席についているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」。偶像に供えられた肉を食べられない「弱い人」が「知識を持っている人」が平気で食べている姿を見て、「良心が強められて」、その肉を食べられるようになる。それは良いことではないのか。弱い人が強くなったのではないのか。ところが、使徒パウロは「弱い人が滅びてしまいます」と言う。口語訳では「その人は弱いのに、良心が強められて」という部分を「その人の良心が弱いため、それに『教育されて』、偶像への供えものを食べるようにならないだろうか」と訳している。ここで言う「滅び」とは、信仰を無くしてしまうとか、つまづくということではなく、「食べても平気」という知識が無いのに、あたかもあるかのように「平気な顔をして食べる」ということである。本当は食べられない、食べることに躊躇している、食べることはいけないことと思っているのに、知識のある人が食べているので、それを「まねして食べる」ということ、それがその人の「滅び」である。と言うのが、使徒パウロの滅びの意味である。
 だからわたしは食べない、という。わたしが食べることによって、信仰の弱い人たちが「信仰から離れる」からではない。「まねされる」からである。真似事としての信仰、これが9節で言う「罪への誘い」であり、11節の「滅び」である。
 問題の中心が見えてきた。愛が造り上げるもの、言い換えると「育てる」ものは、真似事ではない信仰、その人自身の主体的な信仰である。それは知識が育てるのではない。愛が育てるのである。
ここに、牧会者にして教育者でもある使徒パウロの生き生きとした姿が見える。

 

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