2003年3月16日   大斎節第2主日(B年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

神の敵 【ロマ8:31-39】

 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と使徒パウロはいう。それは確かにその通りであろう。天地万物をお造りになり、不可能ということがない神がわたしたちの味方であるならば、恐ろしいものは何もない。ここで用いられている「もし」という条件文は、決して可能性を述べる条件ではなく、「誰もわたしたちに敵対できない」という言葉を強調する「もし」である。使徒パウロは、「神がわたしたちの味方である」ということを確信しているのである。

 どうして、こんなに恐ろしいことが「確信」できるのだろうか。ゲームでいうとオールマイティのカードを何枚も持ってゲームをするようなものである。恐ろしいと同時に、これほどつまらないゲームもない。もし相手もオールマイティのカードを持っていたらどうなるのだろうか。それこそ果てしない争いが待っているだけである。ついでに言うと、こういう場合は、オールマイティのカードとは言わない。
 しかし、この確信は全ての宗教者に共通するものであるらしい。詩篇第118篇6,7節にこの様な言葉がある。「主は、わたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。主は、わたしの味方、助けとなって、わたしを憎む者らを支配させてくださる。」
 神がわたしたちの味方であるという確信は、現実の生活の中で振り回すと非常に恐ろしいことになる。神がわたしの味方であるということは、単純にひっくり返すと、わたしは神の味方であるということを意味し、わたしの判断が神の判断になる。その様な考えを現実の中で振り回すと大変である。わたしに反対する人は神に逆らう人であり、そういう人間は殺されても当然である、という確信へと展開する。
 現実の生活とは、いろいろなレベルで多くの人々と「対立関係の中で」生きということであり、そのすべての状況の中で、こういう考え方をされるとまわりの人間はたまったものではない。これが、宗教的人間の最悪のケースである。
 使徒パウロが「神はわたしたちの味方である」というとき、そういう意味であろうか。使徒パウロはここでそのようなことを述べているのだろうか。この部分を原文で読んで気付くことは、「味方」とか「敵」という言葉は出てこない。原文を直訳すると、「もし、神がわたしたちの方に、誰がわたしたちに向かう」であり、要するに動詞は用いられていない。「エイ ホ テオス ヒュペル ヘーミン、ティス カス ヘーミン」つまり、「ヒュペル」という前置詞と「カス」という前置詞を対比させることによって意味が形成している。英語でいうと「for」と「against」の意味の違いである。
 この前後の文脈においては、「訴える」とか「罪に定める」など法廷での用法の匂いがする、と言われている。つまり、原告側と被告側との争いが感じられる。そこで、本来は裁判官の立場に立つべき神が、「こちら側に立つ」という意味である。そうすると、誰が「あちら側に立つのか」、誰も立てないではないか、ということになる。こうなるともう、裁判そのものが成り立たたない。
 もう一つ、ここで注目しておかなければならない言葉は、ここで言う「わたしたち」とは誰のことか、ということである。普通考えられることは、ここでの文脈からは争う相手に対して「こちら側」という意味での「わたしたち」である。つまり、わたしたちは被告席に座っている。その上で、裁判官もこちら側に立っている、という意味である。つまり、裁判官である神を被告席に引き寄せることによって、訴える側、つまり原告を「神無き側」、「神に敵対する者」とすることになる。つまり、「神の敵」論である。
 使徒パウロはそういう意味で「わたしたち」という言葉を用いているのだろうか。そうすると、神が「こちら側に」付く、何かの理由を「こちら側に」求めなければならなくなる。使徒パウロの人間理解においては「人間の中に」神から「認められるもの」は何もない、ということにある。ロマ書5章10節では「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」と語る。使徒パウロは彼自身のことを最も激しく神に「敵対する者」と言う。彼自身が「神の敵」であった。彼の中には神がこちら側に付いてくれる理由は全くない。
 ここで言う「わたしたち」とは、そういうわたしたちである。そういうわたしたちのために「御子をさえ、惜しまず死に渡された方」(32節)、それがここでの神である。神の前では、わたしたちが日常的に経験する様な「こちら側とあちら側」の対立はない。ここで言う「わたしたち」という言葉の中には、全ての人間が含まれる。
 35節の「誰が、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるのか」という言葉は、わたしたちと神との関係を妨げるものは存在しない、と語る。わたしたちが日常的に経験する「対立する相手」、「いやな奴」、「わたしの敵」も、わたしたちをキリストの愛から引き離すことはできない。神にとって「神の敵」はいない。主イエス・キリストは、わたしたちが「敵」と思っている者のためにも、十字架にかかり、よみがえられたのであり、今も神の右に座って、彼らのために執りなしをしておられるのである。
 「もし神がわたしの味方ならば」という言葉は、この様に理解しなければならない。それは誰かを敵に回す論理ではなく、また現実の日常生活における「対立関係」を前提にする生き方ではなく、徹底的に神がこの世の全ての部分において生きておられる、言い換えるならば世界の隅々にまで神の支配が徹底的に行き渡っているということの確信を表現する言葉である。
 そしてそれはまた、同時にわたしたちの「気配り」の範囲でもある。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」言い換えるならば、ここで述べられている全てのものは神に属している。もっと正確には、これら全てのものの側に神は立っている。神がわたしの側に立っておられるのと全く同様に、神はこれらの側にも立っておられる。神に無関係なもの、神に対立するものは、存在しない。だからこそ、わたしたちには恐ろしいものはない。
 これが使徒パウロの言おうとしている意味である。これこそが世界に対する、キリスト者の最も根本的な態度である。


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